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映画「福田村事件」を観て、感想をFacebookに3つ投稿した、のをまとめて転載。②がいちばん自信作なのに、Facebookではだれもイイネをくれないのはなんでだろう。

映画館からの投稿

 Facebook友人みなさんオススメだったのですが、なかなか腰が上がらなかった(ここ1ヶ月あまり電車に乗る外出をしていない引きこもりなので)のですが、この素晴らしい投稿((Facebook友人のその友人投稿なので、ご本人とコンタクト了承取れないので、Facebookの私の投稿のリンクを貼っておきますので、興味のある方はそこから辿って読んでみてください。)を読んで、これは見損ねては後悔すると思い、今、観てきました。

 相模原の田舎からどこまで都心に進出しないと観られないかと心配していたのですが、なんと普通に新百合ヶ丘イオンシネマで1日3回上映していた。これは大ヒット、上映館拡大中なのではないかしら。座間でもやってる、橋本ではやっていないぽいが。

ちょっと大変に衝撃的作品だったのですが、

「君たちはどう生きるか」のほうが1日1回になってもうすぐ公開終了になりそうなので、これから観ます。

映画のハシゴ久しぶり。

Facebook友人みなさんオススメだったのですが、なかなか腰が上がらなかった(ここ1ヶ月あまり電車に乗る外出をしていない引きこもりなので)のですが、この素晴らしい投稿を読んで、これは見損ねては後悔すると思い、今、観てきました。  相模原...

Posted by 原 正樹 on Wednesday, October 4, 2023


元広告屋的感想文、その①

 映画『福田村事件』、見終わって帰ってきて熊沢氏投稿を改めて読み直すに、これ以上のみごとな内容の要約紹介と的確な複数視点論点での映画評は誰にも書けまい、というほどこの熊沢氏の投稿は見事であるなあ。まさにこういう映画であった。

 しかもこれを読んでから見に行っても「ネタバレで興を削がれた」ということが全くなかった。これは映画の凄さでもある。最近のなんでも「ネタバレ」を嫌がる風潮、それゆえにネタバレに踏み込んでの評論批評を躊躇する風潮というのがなんとも面倒かつ文化的に浅薄だなあと辟易とするわけだが、犯人捜しミステリや、最後の驚きのどんでん返しが最大の見せ場であるような筋立ての映画であればそれは「ネタバレ禁止」であるべきだが、今回この映画のような知られた歴史史実に即して話は進むものであり、かつ映画自体にここまでの力があれば、これほど詳細に論じたとしても、それを読んでから見に行ったとしてもその衝撃が少しも弱まることは無かったのである。熊沢氏のレビューの的確さ詳細さにも負けぬほどの衝撃があった。

 とはいえ、何も書かない、というのもトホホなので、いかにも僕的な、極めて私的な、元・広告屋的な軽佻浮薄な感想を追加しておく。こういうヘビーかつ誰しもが深刻に語ることになる(真面目に語らなければいけない空気が、同調圧力が生じる)映画についてもまあ、広告屋的感想というのはある。

 実は映画を観に行くにあたって、いささか心配性すぎる心配をしながら私は映画館に出かけた。この映画に対して、過激なネトウヨあたりが上映妨害とかしに来たりしていないのだろうか、そういうものに巻き込まれたら怖いなあ、という思いがあった。関東大震災からつまりは当時の朝鮮人虐殺事件からの100年の節目にあたる今年、東京都小池知事が、NHKニュースウェブ記事見出しで言えば「関東大震災 朝鮮人犠牲者追悼式典へ小池都知事 追悼文送らず」というような、事実を認めない立場を示し続けている。

 その中でのこの映画のヒットを快く思っていない政治勢力がいたりしないだろうか。ネトウヨみたいな変な人が。そんなびくびくした思いで映画館に向かい、席についたところ、客席はまばらながらも平日午前中にしてはまずまず数10人は入っている。

 私は常に前方視界が遮られない通路沿いの、やや後ろ目の席を取るのだが、通路階段を挟んで2列前つまり私の斜め前方、ちょうどスクリーンを見ようとすると視界に入ってくるごく近い席に、坊主頭、50代前半くらいの体格のいいいかつい感じの、サンダル履きのおじさんがいたのである。予告編の始まる前のまだ薄ら明るい光の中で観察すると、何やらあやしげな大きなエコバッグのような袋を足元だの通路だのに落ち着きなく置いては動かし、ぶつぶつと独り言をつぶやいては貧乏ゆすりをしたり挙動不審である。どうしよう。何か上映中に立ち上がって叫んだり、危険物を撒いたりしたら、速攻で逃げられるようにしよう。

 このおじさん、映画が始まっても落ち着きなく体をゆすり、荷物をあっちに置いたりこっちに置いたりしている。そして、映画がクライマックスに近づく直前に、なんと急に立ち上がったのである。

 そしてバッグを持ち振り返り、通路を上がってきて移動して、2列後ろの席、つまりは私の通路を挟んで真横の隣の席に移動したのである。

 どうしよう、私が「要注意人物として目を付けて観察していたこと」に気付いて文句をつけようとしているのかしら。

 しかし、である。ここから映画は緊迫の度を増すと、挙動不審のこのおじさん、うめき声をあげつつ、全然、動かなくなったのである。どんどん映画に引き込まれて行ったのである。最後まで、エンドロールの最後まで、明らかに映画にすっかり引き込まれていたのであった。

 結局、単にちょっと落ち着きのない中年おじさんだったのである。私の中の「政治的映画を観る緊張感と、それに反対して上映妨害をするネトウヨが来るかもという恐怖、幻想」をこのおじさんに投影していただけだったのであった。

 この映画自体が、そういう、特定民族や集団に勝手に抱く政治的偏見恐怖を何の罪もない人に投影することから生じる悲劇惨劇を描くものだったのに、である。

元広告屋的感想文、その②

映画「福田村事件」、こういう政治的に極めてヘビーな内容の場合、そのメインテーマについて真面目に語る以外の切り口と語り口で感想を語るのははばかられるものがあるが、それこそ「同調圧力」という、この映画が最大、批判していることだと思うのである。政治的なことを語るにあたってはふざけてはいけない、これは権力側だけにあるのではなく、反体制批判側にも色濃くあるのである。

話がちょいと飛ぶが、サルマン・ラシュディの『真夜中の子供たち』を読んだときに、ああ、この人はインドとパキスタンにとって最も深刻な、おそろしくたくさん人が死んでいる対立を描くのに、このように下品で半分は下半身の話で、しかも面白おかしい話として描いちゃう人なんだな、というのが最大の発見だったのでそういう感想文を書いたことがある。ラシュディの『悪魔の詩』もこの調子で下品な悪ふざけをしてしまったために、イランの最高法学者から死刑宣告をされちゃって逃亡生活を続ける羽目に陥ったわけなんだなあと納得したのである。

 映画の話に戻って、この映画についても、巷にもFacebook投稿上にも多くある真面目な感想以外のことをあえて書く。それは政治的なある圧力に対して、真正面から真面目に批判するという抵抗の仕方もあるが、また一方で、「勇気を持ってふざける」「勇気を持って下半身の話をする」という手法もあると思うからである。

この映画、描写として性的に露骨なシーンはほとんどないのだが、近ごろ見た映画の中で、いちばんイヤらしかった、ど助平であった、この監督さん、何が助平であるかについてものすごくよく分かっているなあ、と感心しながら見たのであった。伊丹十三監督の『お葬式』も、えらくド助平で、この人、ほんとにいやらしい人なんだなあ、と感心したものであるが、あれに匹敵するのである。

閉塞された小さな農村、福田村には、この時代、戦争にいった夫の留守に戦争に行った兄の嫁に弟が間男、だの息子が戦争に行った間に義父と嫁が、だの(この映画で描かれるのはこの2ケース、そういう助平なことが頻発しているのである。

兄嫁に間男をした弟は、東出昌大が演じるのである。利根川の渡し船の、渡し守をしている。渡し守だから、上半身半裸に使い肉体美を見せつけるわけである。東出くんの容姿で、日に焼けて半裸で、それはもう、狭い村の女たちはみなもう東出くんのことを常に性的存在として、おばさんたちも眺めているわけで、それと本当にできちゃった兄嫁は村中女の嫉妬と羨望と軽蔑を集めているわけである。

そこに、朝鮮から帰ってきた村出身のインテリ、日浦新のその連れ帰ってきた若い嫁、田中麗奈が、もう一人、おしゃれな洋装で日傘をさして、戦前のマドンナったらこの姿という農村には場違いな格好でやってくるのである。そして、インテリ日浦新は朝鮮でのある出来事での心の傷からいわばUターンして農家になろうとするのだが、この人、性的不能にもなっている。ので、マドンナ田中麗奈は欲求不満なわけである。で、毎日のように東出くんの渡し船に、用もないのに乗っては、東出君を誘惑するのである。最後の方で本格的に露骨に誘惑するシーンもさることながら、まだ映画前半部分、東出君の渡し船の床に、そのマドンナドレスのまま横たわり、けして大股開きするわけではない、わずか、体育の休めの姿勢くらいの角度で足を開いて、渡し船に横たわる。それを俯瞰上空からのカメラで映す、そのカットのもうなんというか、究極のエロさ。すごい。いやらしいにもほどがある。

この田中麗奈の件だけ書いたけれど、この映画の描く「福田村」の中には、そういう性的なことにからむ欲求不満と嫉妬となんやかやの情念が、危険な燃料として備蓄されていたのである。その描写がものすごい。東出君もこの役ならば、むしろスキャンダルイメージが魅力増幅装置として働いてすんばらしいのである。

キャスティングという視点で言うと、薬物スキャンダルで干されていたピエール滝が、権力におもねって朝鮮人の危険を煽る記事を書く新聞社のデスク役を好演していてこれはある種の「皮肉の利いたキャスティング」だが、そうした意味では、在郷軍人会長を演じた水道橋博士というキャスティングがこの映画成功の非常に大きな要因になっている。水道橋博士と言えば、ツイッター上で反権力投稿を続けるうちにれいわ新選組の参議院議員にまでなった、反権力反自民反ネトウヨ的言論と行動を貫く人物である。その水道橋博士を、この事件の、朝鮮人ヘイトの中心人物、戦前軍部と天皇の権威を傘に着て扇動を繰り返す最悪の人物を完璧なまでに演じきっている。

 で、水道橋博士の在郷軍人会長の人物造形というのも、これまた私の私的なコンプレックスから感想を書くとこんな風になる。

 水道橋博士が登場して印象的なのは、不格好に背が低く、太って腹が出ている、そういう体形についてである。このチビで腹が出た不格好な小男。どこかで見たことがある。そう、私の鏡の中の姿である。

 この在郷軍人会長(水道橋)と、村長(豊原功輔演じる)と、朝鮮から戻った元教師(井浦新)、この三人は村の小学校同級生という設定である。小男水道橋はコンプレックスの塊である。豊原は村一番の金持ち庄屋の息子で、デモクラシーを信奉する地方のインテリで長身でイケメンである。井浦は師範学校を出て朝鮮で教師(といってもかなり上級の学校のと思われる)をしていたさらにインテリである。長身でイケメンで都会的でインテリ、という豊原と井浦に対し、水道橋在郷軍人会長は、チビで腹が出て、学歴もなくブサイクな顔である。彼の中の唯一の頼りは軍人であったことで、在郷軍人会長であること、軍の権威、天皇の権威を傘に着て周囲を大声で恫喝することでかろうじプライドを保って生きてきたのである。この映画のクライマックスで描かれるように、戦前は軍と警察というのは国家権力行使機関として国家レベルでも実は対立構造というか、相互牽制構造にあった。この関東大震災が「警察機構よりも軍隊が頼りになる」という国民感情形成の走りだった、というようなNHKスペシャルがつい最近あったばかりである。

 話は横道にそれたが、この福田村と言う田舎において、現役の軍ではなくて「在郷軍人会」という天皇と軍の権威を借りるおっさんたちが、警察や村長という普通の行政権力機構を超えて力を持ってしまっている構造というのが描かれていて、その中心人物の水道橋博士が、チビで腹が出て低学歴でというコンプレックス、ルサンチマンの塊のような人物である、と描かれている。

 性的な関係における嫉妬や羨望や憎しみやというエネルギーと、インテリ学歴や容姿長身や都会的洗練とかいうものに対するコンプレックスのエネルギーの蓄積、そういうものがこれでもかと描かれることで、この映画のクライマックスまでに、もう明らかに少しでも火の気があったら大爆発という「火気厳禁」状態に福田村がなっていたことが、ものの見事に描かれているのである。

もちろん映画の主題は、そこではない。それは「燃料」の部分なのだが、下半身とコンプレックス、という燃料部分にこそ「文学」の魅力はあるわけで、文学的にこの映画を観るならば、そこの素晴らしさにこそ、目がいってしまうわけである。田中麗奈って、サントリーなっちゃんTVCM以降、特に女優さんとして注目したことはなかったのであるが、この映画の田中麗奈、もうすごい。助演女優賞あげたい。水道橋博士にも助演男優賞あげたい。それくらいこの二人が素晴らしかったのである。

水道橋博士演じる在郷軍人会長、第三者的に見ていれば最低最悪である。しかし最後、彼の妻が彼のことを抱きしめて「あなたはせいいっぱいやった」と言う。いやひどい最悪だったんだけど、その状況で精いっぱい頑張っちゃったらああなったのである。みんな、正義の側に感情移入して見るんだと思うけどさ、自分の心の中とか容姿とかコンプレックスとか性的欲求不満とかそういうものをきちんと見つめたら、どっち側のどの立場になるかっていうのは、そのときになってみないと分からないんだよ。後から客観的に見ると言語道断な行動でも、そのときその瞬間には自分が正しいと思ってやっているんだよ。

元広告屋的感想文、その③


つまりね「福田村事件」という映画をめぐる、すごく悲観的な見解を述べるならば

①同じような状況で加害者側村民になっちゃうタイプの人は、あの映画をそもそも見に行く人が少ないだろうと思う。見に行くのはあの映画でのインテリタイプだけである。

②もし見に行ったとしても、見ているときは自分がそうなっちゃうという想像力が働かないので、加害者について「あいつらひでえな」と思っちゃう、それで終わる可能性が高い。

ということなんだなあ。

あの映画のなかで、新聞記者の存在と行動、部長との対立の部分がいちばん建前的正論全開だったのは、そこで負けちゃうと、もう悲劇は止まらないからなんだという脚本、監督の思いがあるからなのである。権力に阿るマスメディアをまるごと信じる人のほうが常にマジョリティなのである。

さらに、地域の普通の人がどう動くか、動かすかを権力はいつも考えているのである。

特高警察とか軍部とかが怖いなあ、は描きやすいが、村の青年団、消防団、そういう人たちがあの事件、やっちゃったのである。婦人会的おばちゃんが後押ししちゃうのである。

「町内会に熱心で、お祭りなんかで率先してがんばる気のいいお兄ちゃんやおじさんやおばちゃんたち」が、戦争やなんかではいちばん怖いことをしちゃう可能性が高い、ということなのである。そういう人たちははあの映画はあんまり見に行かないのだ。

 権力はそういう町内会、青年団、消防団、婦人会、子供会のお母さんなんかを、ことあるごとに権力の下請け組織として、動員組織として飼い慣らそうとするのである。非常時だけではない、日常的にそういう構造を構築しているのである。

そういえば、来年はまた持ち回りで自治会役員だなあ。

おしまい。

以前書いた下のnote、ちょっと関係ある


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