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『寅に翼』最終回を見ながら、「法律と規範」の関係についてあれこれ考えた。『「論理的思考」の社会的構築』渡邉雅子著 から引用しつつ。

『寅に翼』最終回の日が、自民党総裁選の当日というのも不思議なものだなあ。

 朝から『寅に翼』最終回→大谷、ドジャース、逆転勝利で地区優勝→第一回投票、高市さん一位→決選投票、石破さん逆転勝利と、テレビの前で気づくと夕方である。

 朝ドラについて単に「ロス~」なんて言いながら、そしてすぐ忘れて次のドラマの話になる、というのももったいない。くらいなかなかいろいろ考えさせるドラマだった。ので感想文をつれづれ書いていく。

 このドラマを「女性はじめマイノリティの権利獲得苦闘のドラマ」とだけ考えるのはちょいと視野が狭いと思う。このドラマへの批判として、現代における女性やマイノリティについての問題意識(現代的な意識)を、(時代考証より優先して)過去の状況にぶっこんで描いている、という批判がたびたびあった。確かにそういう側面はあったのだが、そのことでこのドラマを肯定絶賛したり、批判否定したりするのいうのはちょいと違うなあ、ということを書こうと思う。

 ちょいと別の視点で言うと、(初回シーンから最終回までの)ドラマの構成から言えば、中心にあったのは寅ちゃんとか個人ではなくて、憲法14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」その新聞記事を寅ちゃんが読むところからドラマは始まるわけで、そのことに導かれて寅ちゃんはじめ、登場人物たちが戦前から戦後を生きていくドラマだったのは間違いない。憲法14条が主人公、優三さんは人格化した憲法14条、なんていうドラマ評もあったりした。

 けれど、だからこのドラマを「護憲」という政治的意図を持ったドラマだと捉えるのも(肯定するにせよ否定批判するにせよ)それもまた違うと思うのだよな。

 このドラマ、最終回にも桂場と虎ちゃんの会話にも出てきた「雨だれ」、大事なメタファーだった。Facebook友人の中島先生が「雨だれ石を穿つ」の、このドラマでの用法について、これまでにない新しい解釈を含んで使われている、(一般的には「継続的努力、小さなことの継続が長い間に大きな成功につながること」として使われるが)、その「雨だれ」一粒ずつを一人の人間の人生として「雨だれ=人、人間、人生」という意味で使ったのはこの脚本家のオリジナルな用法だ、と中島先生は指摘している。

 そういう雨だれとしての寅ちゃんはじめ登場人物たちのドラマであった。

 では穴を穿たれるべき「石」とは何かというと、固陋な何か、なのだが。それは社会的通念、慣習みたいなものと、「旧来の法律や憲法」とその解釈という「法の世界の話」と。両方があったでしょ。「社会の慣習」というのと「法の世界」の話がいったりきたりする。そういうドラマであった。

 ここんところが、実はこのドラマを論じる上で、すごく大事なことだと思うのだな。このドラマの語る「地獄」って何、という話も、そこんところをクリアに論じて行かないと、よく分からなくなる。このドラマへの反感とか否定論というのも、この点についての「あいまいなもやもや」のせいだと思うのだな。

 僕がこれを考えるひとつの指針にしたいのが、渡邉雅子著『「論理的思考」の社会的構築』の中の、フランスの(性)教育における「社会における法律と規範」という部分なんだな。ちょいとすごく長いが引用するぞ。(と、書き写して入力するのに気合いれないといけないくらい、長いぞ。)

法律と規範の定義から社会生活の「判断基準」を学ぶーー弁証法的な展開
 性教育七回目の「社会における法律と規範」の授業は、児童たちの先生から始まった。性の問題は、個人的なことに触れる可能性が高いので、率直に話し合うために、話し合いの内容を口外しないこと、担任教師にも親にも言わないことを児童に先生させてから授業を始める事である。担任とは違う講師の存在、そして先生は通常の授業とは異なる領域のことがらを扱うことを児童たちに意識させる効果的な設定となっている。
 授業は「法律と社会規範」の言葉の定義を児童にさせることから始まった。「法律とは」の問に対しては、児童たちから「義務」「守るべきもの」「国民議会で作られるもの」など次々に定義が出された。これらの断片的な定義を、講師が総合してていねいな説明を加えた。法律というものの特徴や成立の具体的な過程を説明する中で、歴史的な淵源はフランス革命の人権宣言にあること、立法を行うのは国民議会と上院であるがこの二つには異なる機能があること、法律は国民の代表である議員によって決まるがゆえに義務であり、守り尊重すべきルールであることが確認された。これらは市民性教育で繰り返し教えられる基本事項である。
 「では規範とは何でしょう?その定義は?」との問いに児童たちは顔を見合わせるばかりである。そこで公私は「規範(norme)という言葉はどう成り立っていますか」と質問すると、「正常な状態(normalite)や「普通の(normal)」といった関連語や「ある地域や集団で慣れ親しんだきまりごと、常識(norme familiale)という熟語が月々と児童から挙げられた。講師はそれを簡潔にまとめて「規範とは、ある地域やグループにおける決まりである」と定義して黒板に書いた。言葉の定義を語源や関連語から解き明かすのは、あらゆる教科を通じてよく行われる方法である。
 「では法律と規範はどう違いますか」と講師が問うが、抽象的過ぎたのか、児童からは全く意見が出ない。そこで講師は次々と例を繰り出して、それらが法律と規範のいずれに関わることなのかを答えさせる。「今週の三連休は、法律ですか?規範ですか?」「映画館で見る映画の年齢制限は?」と続いた後、「男の子がスカートを履いて外出することは禁止されていますか?」との問いに「禁止はされていない。」と答える児童たち。「禁止はされていないわね。でも、「おかしい」とは思う。これが「規範」の本質です」と講師は述べ、さらに核心に迫る問いを投げかける。
 「では何かを「おかしい」と思う根拠は何ですか?何が考えや思想に影響を与えるのですか?」この問いに「宗教」という答えが児童から即座に返された。「カトリック」「プロテスタント」「ムスリムもある」と例を挙げ出す児童を講師は制して、「フランスではあらゆる種類の考え方が存在していますね。そしてこれらの考え方の違いが教育にも影響します。そして習慣的な規範を作りますね」とまとめた。
 「他に社会的規範としてはどのようなものがありますか?学校の男女共学はどうですか?これは法律?」「法律だ」「そうでない」と児童の意見が分かれる。「1970年から男女共学になったけど、これは法律ではないわね。義務や強制ではないから、規範の範疇ですね」と講師は答え、女子校の体験を語った。服装や立ち居振る舞いに多くの規範が働いていた事実を具体例で説明し、その中で女性がズボンを履くようになったのが比較的新しい傾向であることを確認した。二十あまりの規範の例が出たところで、それらを「社会」「慣習」「宗教」の三つの領域に分けて黒板に書き出して整理した。
 次に、これまで学んできた言葉の定義を、社会生活における判断へと応用する「法律・規範ゲーム」へと授業は進む。この日の授業の山場である。ゲームのルールは、講師があることがらについて規範か法律か、あるいは法律と規範に照らして可能化不可能かを示すので、それについての賛否を児童が即決するというものである。賛成は白、反対は緑、議論したい場合は黄色のカードを出す。「決める時は静かに一人で決める。カードは素早く無言で出す」ことが確認される。以下は講師が出した分の一部である。

①映画館に一人で行けるのは10歳から。これは規範である。②子供に食事を与えなければならない。これは法律である
③大人になれは、人は好きなことをしても良い。
④すべての女性は職業に就くことができる。
⑤愛し合っていれば結婚できる。
⑥同性愛は法律によって認められている。
⑦教師は子どもたちに授業中 紙を集めるように要求することができる。

 ①の「映画館に一人で行けるのは10歳から。これは規範である」については「誰が」禁止を決めるかによって法律と規範に分かれることを、講師は児童たちとの討論から導き出した。映画館に10歳で一人で行けるかどうかは両親が決めるので規範であるが、この原則に従うと③「大人になれば人は好きなことをしてもよい」かどうかも、家庭の教育観にもよるし、子どもの成熟度にもよる。フランスで認められていても他の社会では禁止されていることもあるので、社会規範の範疇に入ることが確認された。例の①から③までは、保護者の責任と役割の大きさが強調されており、18歳で成人したからといってすべて個人の自由になるわけではないことが強いメッセージとして伝えられていた。
 ⑥の「同性愛は法律によって認められている」という例については、1980年までは法律で禁じられていたが、それ以降は社会的な範疇になったことから(2002年5月の授業観察時現在)、「法律は義務として従うものだが、規範の中で人は選択することができる」という結論が導き出された。
 ここからもう一歩進めて④の「すべての女性は職業に就くことができる」という例からは、「法律と規範はどのような関係があるか」が話し合われ、「規範が変われば法律が変わることがある。規範は変化して法律になることもある」と女性が就く仕事の変化から結論づけられた。こうして「法律と規範」の定義と討論から引き出せされた結論は、「社会規範が変われば、法律も変わることがある」と「規範の中で人は選択することができる」であった。
 この中でも特に「規範の中で人は選択することができる」というメッセージは、児童たちが将来自らの行動を決める時、ものを評価・判断する際の重要な指針になると考えられる。同性愛について善悪の判断はせず、規範の中で選ぶことができるという原理に基づき、同性愛であるということも一つの選択肢である
 という提示の方法を授業では取っていた。また社会規範である「女らしさ、男らしさ」にまつわる行動様式については言及しながらも。、社会によって時代によってそれは「変わるものだ」ということに重点を置いていた。また法律において、選択肢はないと教えつつも、規範が法律反映されて変わる事例を示すことで、「社会状況に応じてルールは変えられる」という考え方を強調していた。価値観の普遍を示す道徳の授業とは異なる。フランスの市民性教育に特徴的な価値観かの提示方法である。
 法律と規範という二つの異なる視点を軸に、「法律も変えられるのだ」という結論を導き出すことで、規範と法律の違いを超えた第三の視点、フランス社会の中で価値を持つ「既存の法律の絶えざる改善」の視点を導き出した授業の構成は、弁証法の展開をなぞっている。この弁証法の展開は、公民的思考から政治的思考への移行をも促すと考えられる。法律順守による「社会秩序の維持」という公民的な思考法から、人々の様々な意思や異なる利益集団からの要求、その時代に応じた要求の闘争の中から、何を社会の意思として選び取り実現するかという政治的思考に目を向けさせるからである。その際に、いずれか一方に偏らず、対立する視点を保持しながらダイナミックに対立解消を目指す弁証法は、思考の方法としてフランスの市民性教育の主旨に適合する。

『「論理的思考」の社会的構築』p192~196

引用おしまい。

 なんか、これだけで、寅ちゃんだけじゃなく、米さん男装から轟同性婚まで全部「虎に翼」の解説みたいだな。

 このドラマの淵源は憲法14条に遡ることができる、ということだな。日本の不幸は、この憲法が、まあこのドラマでは日本人法学者たちが主体的に関わって決めたのだと描いていたように記憶するが、そうではあれ、敗戦によって「勝ち取った」というよりは「負け取った」なんて言葉はないが、そういうものだということだな。フランスの「フランス革命の人権宣言にその淵源がある」と小学生かに対してから誇り高く教えられる感じとは、なんかちょっと違うのである。

最終回、のやりとり引用

桂場「私は今でもご婦人が法律を学ぶことも職にすることに反対だ。法を知れば知るほど、ご婦人たちはこの社会が不平等でいびつでおかしいことに傷つき苦しむ。そんな社会に異を唱えて動いたとしても社会は動かないし変わらん。」
桂場「君はあれほど石を穿つことのできない雨だれはいやだと腹を立てて来ただろう」
「君のように血が流れていようとその地獄に喜ぶものはほんのわずかだ」
山田米さん「いや、ほんのわずかだろうが、確かにここにいる」
桂場「失敬、撤回する。君のようなご婦人が特別だった時代は終わったのだな。」

『虎に翼』最終回

「地獄」というのは何かというと、社会規範の変化(しないこと)と、それを法律に反映させること(法律自体やその運用解釈の)、その変化のはざまに、「法律は変えられる」「変える主体」として生きることだったわけである。

 でね。桂場も、穂高教授も、悪人ではなくて、当時の社会規範の中で、その古くからの規範の側に立って考え、発言し、行動した人たちだということなんだよね。

 社会規範もちょっとずつしか変わらないし、法律はさらにそれより保守的だ。その地獄に自ら身を投じて、規範と法律、その運用を少しずつでも変えようとして生きること=「地獄」で生きることを「幸せだ」と誇らしく思う、そういう人たちのドラマだったのであるな。

 高市早苗は「日本初の女性首相」とはなれなかったわけだが、最も保守的な思想を持つ女性が日本初の女性首相になったとしたら、リベラルの人たちはどういう気持ちになったのかな。あるいはなれなかったことをどう思ったのかな。

 社会規範と法律の関係。「道徳と法律は違う」ということを、尊属殺をめぐるエピソードなどで、このドラマは繰り返し描いてきたわけだけれど。

 今の自民党改憲は、「道徳」を、社会規範にとどめておくべきことを、憲法に盛り込もう、という意味でいかんなあ、と思う。

 一方、穂高教授や桂場さんのドラマの中での発言や行動を「ひどい」と批判していたリベラルな人たちというのは、社会規範のありようについて性急で偏狭に「正しさ」を求めすぎるのではないかなあ。あの時代の、あの年齢の人なら仕方なかったんじゃないか、という想像力が欠けているのではないかなあ、と思うのだよな。

 上記引用授業の中で、フランスの児童が「男がスカートを履くのはおかしい」と素直に言い、その「おかしい」という感覚をいったん認めたうえで、その根拠は何だろうと問うていく、そういう授業を進める講師の人のような「規範」についての認識が、性急なリベラルの人には欠けているような気がするのである。

 規範と法律、とか、公民的思考から政治的思考、とか、そういうことを教育の中で考えたことって、だって僕ら、無いもんね。そういうことは「道徳の授業」よりもはるかに大切なのだが、こういうことを小学生から考えるためには、実は「作文教育」のあり方から違うのよ、というのが、『「論理的思考」の社会的構築』『「論理的思考」の文化的基盤』という二冊の専門書なのであるが、値段も高いし分厚いし。と思ったら、この著者、そのエッセンスを岩波新書にしてくれたみたいなので、来月発売らしいので紹介しておきます。


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