『ウォーターダンサー』タナハシ・コーツ(著)上岡伸雄(翻訳) なんでこんなに僕の心の中に抵抗感があり読み進むのがつらかったのだろう。その理由を考えた。ほぼ脱線だらけの感想文。
『ウォーターダンサー』 (新潮クレスト・ブックス) 2021/9/28
タナハシ・コーツ (著), Ta-Nehisi Coates (著), 上岡 伸雄 (翻訳)
Amazon内容紹介
ここから僕の感想
正直「あんまり好きじゃあないなあ、読みにくいなあ」と思いながら読んでいたのである。なかなか進まなかった。アメリカの奴隷制を批判的に描く小説、というのはこれまでも何冊か読んできたのだが。その中には大好きな小説もあれば、読みにくくて途中で挫折した小説もある。そういう読書体験や、あるいは同方向のテーマの映画を観てきて思うのは、アメリカの人種差別、奴隷制、黒人の問題というのは、日本人である僕が理解するのがものすごく難しい問題だ、ということ。これはユダヤ人問題とホロコーストを扱った小説や映画についても常々、思うことなのだが。理解するのが難しいだけでなく、作者や登場人物、主人公に対して、どういう立ち位置で読者たる自分を置いて読むか、に迷うというか、しっくりした位置が取れないのだ。だから、すごく読みにくいし、好きになれないという感覚はそのせいだと思う。
まず、この感想文では「黒人」という言葉を使って主人公や作者について書いていくけれど、そうすると「アフリカ系アメリカ人と書かないと」みたいなつっこみが当然予想されるのだけれど、僕はアメリカの人種差別問題や奴隷制についての小説や映画について批評を書く場合は「黒人」とあえて書こうと思うのだ。それは同じタナハシ・コーツの『世界とぼくの間に』の解説で都甲幸治氏が書いていることをちょいと引用する。
この小説の主人公ハイラムは、白人農場主の父親と、黒人奴隷の母親の間に生まれた。だが、上記のような社会構造なので「黒人」であり、奴隷なのである。
タナハシ・コーツは、こういう米国社会の歴史的構造の中での作られた「黒人」としての問題に対して戦いつつも、その「黒人」としてのコミュニティを自分たちは作り、そこにしか故郷はなく、それへの愛着と誇りを持つのである。そのことはこの小説の随所からも感じ取れるのだが、考え方としてはこっちが分かりやすいので、『世界と僕のあいだに』から引用する。
タナハシコーツが問題にしているのは、奴隷制から続く、つくられてきた「黒人」の問題でありそれは戦い続けなければらない問題であると同時に、帰ることができる故郷もコミュニティも祖先から自分たちが「黒人」としてアメリカの地において作り上げてきたものだけなのだ。だから、僕は、アメリカ社会の奴隷制と人種差別を扱う小説や映画を論じる時は、まずは黒人という言葉を使い、その中の微妙な差異を論じる必要があるときには、都度、適切な言葉を探そうと思うのである。
と、ここまで書いてきても、日本人としての僕の居心地の悪さと言うか、立場の定まらなさが明らかになる。東アジア系の、白人からは黄色く見えるらしい有色人種に対し、ブラックライブズマターの運動に伴う対立が激化したとき、黒人が、東アジアの人たちを襲撃する事件が頻発したのは記憶に新しい。黒人から見ると、東アジアの、中国人韓国人日本人(黒人も白人も、多くのアメリカ人から見て東アジアの人の区別はつかない。というか、日本は中国の一部だと思っている人のほうが数は多いだろう。)は、学校で成績がよく、大学進学率が高く、知的職業につく人が多く、アファーマティブアクションの議論、制度のなかでも黒人とは利益が相反する。黒人から見ると「黒人ではない人々」の側に東アジアの人たちは入るのだろう。「黒人として差別されている怒り」の攻撃の矛先は、東アジアの人たちに向かうことも多いのだろうと思う。
そういう日本人である僕が、この小説を読みながら、それは普遍的人権とか人道とかの見地から、奴隷制の支配者抑圧者側である白人側を悪として、それに抵抗する黒人側を善として、善の側に自分を置いて共感しながら読むことを、すんなり受け入れられるかと言うと、なかなかそうはいかないのである。あまりに過酷な弾圧抑圧暴力と、それに対する怒り、そうした構造に対して戦い続けなければならないという思い、体験をどう呑み込まなければ生きていけないかと言うこと、それは分かるかといえば、本当のところは分からないのである。
ここは、そうだな、ちょっと違うか。別の角度から説明を試みる。話は小説そのものからどんどんズレていくが、この小説を読んでいる期間が、イスラエルによるガザ地区への攻撃が激しく続き、世界中で、それこそアメリカの大学でもイスラエルを非難しパレスチナを支持するデモが起き、昨日はニューヨーク大学でのデモを警官隊が弾圧、逮捕者も出たというニュースをやっていた、そういうのを見ながらこの本を読んでいたこととも関係がある。
あるいは、この本を読む前に読んでいたのが、イタリア系ユダヤ人、プリモ・レーヴィのアウシュビッツ体験を書いた本だったこともそこからつながってくる。ユダヤ人のことをアウシュビッツでドイツ人が虐殺した。そのことにおいては、ユダヤ人は絶対的被害者だ。ナチスドイツは絶対悪だ。そのことの歴史的負い目をドイツ人は負い続けてきたために、パレスチナとイスラエルの関係においても、ドイツ政府は(それだけではない、ドイツ社会の中の進歩派の人たちさえも)、今回の紛争においてイスラエル支持の姿勢を取り続けてきた。歴史的にある時点で起きたこと=ナチスのユダヤ人迫害、虐殺が、その後のユダヤ人のあらゆる振る舞いを免罪する根拠にならないのは当然だと思うのだが。アメリカの黒人が奴隷制と、その廃止後も、現在もどんなひどい扱いを受けてきたか。それについては読む。知る。分かったとは言えないが、読んだり見たりして知る努力は続ける。でも、知る前に、「黒人側に立って、そちらからだけ見る、考える」という立場には立たない。僕は日本人だから。それは、ホロコーストを学ぶことと「常にユダヤ人側(が正しい)からものを見る」のが正しくないのと同じ。そういうこと。
ということでいうと、歴史的な出来事としてのアメリカという国における黒人奴隷制とそれが色濃く残る現代のアメリカ社会のありようが白人の絶対的悪だし黒人が絶対的被害者なことは、ひとまず同意するとして。しかし、それに対する現在の黒人の戦い方について、すべてを無条件に肯定はできないというのが、僕の気持ちの根底にはあるのだ。
いや、黒人の中だって、それとどう戦うかについては一枚岩ではないだろうし。「ドリーマー」という言葉への批判というのは、マルコムXを支持する側のタナハシ・コーツが、マーチー・ルーサー・キングの非暴力の戦い方への批判を含んでいるように感じる僕の捉え方は間違っているのだろうか。
これはアメリカの国内の問題なのだよな、まずは。人種差別は世界で、日本でもいろいろな形であるけれど、その発現の仕方は様々で、タナハシ・コーツが語り、描くのは、まずはあくまでもアメリカの歴史と現在の中の、黒人差別の問題なのであって、何を一般化普遍化してよくて、何は固有の問題なのかはよく考えないとダメだと思う。
そして、アメリカ社会がこの問題を今に至るまで全く解決できていない、ということは分かる。だからタナハシ・コーツは戦い続けているし、こういう小説を書いていることも分かる。分かるけれど、僕は日本人で、アメリカに住んだこともない僕には、遠くから他の国の深刻な歴史と現在も続く問題を認識する、ということしかできない。そして、アメリカの、奴隷制のとき奴隷だった黒人の子孫としてのタナハシ・コーツの抱える怒り、その視野の中のことは実感はできないし、その外にあって語られないことのことも、気になったりするのである。
アメリカの歴史の中での大きな構造的罪のひとつはたしかに黒人奴隷制と「黒人・白人」の人種差別問題だけれど、それ以前にある、原住民先住民ネイティブアメリカンに対してヨーロッパ人が作ったアメリカという国がやったことの罪は、同じくらいひどい罪だと思う。そして、ネイティブアメリカンの問題と黒人の問題は、当然、全然別の問題だ。敵対する問題ではないけれど、別の問題だ。僕が黒人の問題にだけことさら肩入れをするという気持ちになりづらいのだな。
黒人の問題はひとまず、読んだ。分かったとは言わない。そのことだけに深く共感する前に、他の周辺のいろいろについても知りたい。僕は、そういう気持ちになるのだな。
今回、この小説を読みながら、メリーランド州の歴史を調べていたら、ウィキペディアにこんな項目を見つけた。
アメリカ合衆国はネイティブアメリカンから土地を略奪し、追いだし、という過程で、いちおう彼らと契約を結んでいる。だまし討ちのようなものばかりだが、代替地を提供したり生活の保障をしたりしている。そうする裏で、ネイティブアメリカンのことはどんどん僻地に、ひどい土地に追い込んでいって、絶滅(いなかったこと)しようとしたのである。ひどい仕打ちである。
奴隷としてつれてこられた黒人は、白人の資産として「差別されているが、資産として大事にされてもいた。もともと人権などなく、資産であった」という、そういうひどさなのだ。(黒人の肉体という資産の価値がアメリカの社会と歴史の根底にある、ということをタナハシ・コーツは繰り返し書く。)
一方、ネイティブアメリカンは「敵として厄介だったし、懐柔する過程で、いろいろな権利を与えてしまったから、その権利を将来、主張しないように、いないことにしよう、滅ぼしてしまおう」とされてきた。どっちもひどい。しかし大雑把に言うと、白人から見ての価値と扱い方に、ネイティブアメリカンと黒人では、違いがあったのだと思う。
黒人からすれば、自分たちの奴隷制とその後の人種差別への怒りで手一杯で、そのための戦いに手一杯で、ネイティブアメリカンのことは分かってはいても、そこまでは面倒見切れないのだと思う。アジア人のことは、もっと恵まれて見えるから、むしろ腹が立つのだと思う。そしてラテン系の人たちがどんどん増えていることは、これまた自分たち以外の、ややこしい立場の少数派が、「少数派の中でのマジョリティ」になってしまい、どう考えていいのか難しいのだと思う。同じ黒人でも、ジャマイカとかハイチとか、そういうカリブ海でいったん独自の社会を築いた後に、アメリカに渡ってきた人たちは、アメリカ国内の奴隷制にルーツを持つ黒人社会とは、また別の扱いを受けていたりするのだと思う。大坂ナオミがなんだかアメリカ社会の中でふわふわと浮いた存在なのは、お父さんがハイチ出身でお母さんが日本人だから、肌の色は黒人でも、アメリカの黒人社会というルーツは全然無いということも関係しているんだと思う。アメリカ黒人らしくないのだと思う。
というように、アメリカ国内の奴隷制に起源をもつ黒人差別の問題というのは、その当事者というのは当然アメリカの奴隷制起源の黒人たちであって、それ以外の国内マイノリティの問題とも違うものだし、アメリカ人ではない外国人にとっては「よその国の国内問題」なのだ。冷たい言い方だけれど。
そういういろいろの中での、この小説が扱っているのは「アメリカの黒人奴隷制の中で、奴隷だった黒人社会にルーツを持ち、そこで形成されたアメリカ黒人社会の文化に愛着もありつつ、奴隷制を批判している」タナハシ・コーツという作家、その彼が作り出した主人公はじめ登場人物たち、そして物語なのである。すごく「アメリカの黒人の話」なのだな、当然のことながら。
ここまで書いてきて、なぜ、僕は南米の、例えばコロンビアの小説(ガルシア・マルケスはじめ)なんかは、こういう抵抗感なしに、わりとすんなり読めるのかなあ、「大好き」というスタンスで読めてしまうのかな。という疑問がわいてくる。アイルランドの小説家のものも、すんなり読めるなあ。トルコの小説家も。なぜだろう。
と考えると、コロンビアが典型的にそうだけれど、アメリカに従属している国の嫌な気分、というのが共有されているからだと思うのだよな。アイルランドの場合、イギリスに、だけれど。トルコの場合は、アメリカと西欧に、ということだと思うのだが。アメリカとかアングロサクソンの掠奪的独善的暴力性みたいなものに対する嫌悪感というのが、ベースにあるんだと思う。
つまり、タナハシ・コーツの、アメリカの黒人の問題というのは、アメリカという、とても病んでいるのにきれいごとを言う、『世界と僕のあいだに』で、「ドリーム」「ドリーマー」という言葉で何度も繰り返される、アメリカのきれいごとの理想と暴力性みたいなものに対し、それを下支えする底辺としての役割を、国内的構造として歴史的にずっと負わされている黒人の問題を扱っているのだ。それはアメリカ国内の問題として、なんとかしろよ、と思ってしまうということだな。それはアメリカ黒人の問題として、アメリカ国内でなんとかしてくれよ。僕には分からないよ。そういう気持ちになってしまうということだな。
これに対して、ガルシアマルケスやオルハンパムクやなんかに対しては、「そうだよな、アメリカって嫌な感じだよな、こっちにはそれぞれアメリカに指図されたくないそれぞれの国の文化や社会があるんだから。それがどんなにトホホなところがあるにせよ、僕らは自分の国の社会や文化を愛しているんだよな。アメリカに勝手に上から支配されたくないよ」と思うのだな。共感ベースが築きやすい。読書をしていて。
日本やコロンビアというのは、アメリカの属国としてアメリカがデカい顔をすることに対して、ずっといやな気分を抱えつつ、それの影響下に19世紀くらいから置かれ続けてきた、そのアメリカの「ドリーム」の、国際的な暴力性に、国として隷従してきた歴史があるから、なんとなく共感度が高いのだと思う。ペルーとかチリとかの小説も同様だな。ペルー人バルガス・リョサの『ケルト人の夢』が、アイルランド人を主人公として、イギリスへの抵抗を描くのはそういうことだと思う。
米国内・黒人の視点からすると、抑圧者は米国の白人たちになるのだけれど、しかし、米国という国に隷従して嫌な体験を重ねてきた日本やコロンビアやチリや、そういう国の人から見ると、米国内の人種差別問題も含めてそれは「米国内問題」に見えるんだよな。あなたたち黒人を含んだうえでの暴力的アメリカっていうふうに感じられるのだ。黒人のあなたもアメリカ人だよ、日本人から見れば。『世界と僕のあいだに』の中で日本に関係がある記述は、息子と観に行って白人といやな体験をしたときの、その映画が『ハウルと動く城』だったことだけだもんな。それくらい、タナハシ・コーツから見て日本が遠いのと同様に、日本から見てタナハシ・コーツの書いている世界は、本当は遠いのだと思う。それを無理やり「分かる」とか「自分と関係あることだ」と解釈するのは、僕には「ドリーマー的ウソ、きれいごと」に思えるのだな。
ひとまず、「読みにくさ」についての考察はここまでにしておこう。
この小説自体についての感想
この小説、主人公の若者男性、ハイラムの成長の物語でもある。小説のスタート時点では、まだ少年といっていい。いろいろと未熟なのである。ハイラムは圧倒的な記憶力、知的能力を持っている。その上、白人農場主の息子でもある。そのことにより自分には何ができるのではないか、ということについて、当初、甘い期待を抱く。しかしその後、未熟な子供として手痛い失敗を重ねる。そしていろいろなことにだんだん気づいていく。その成長の物語である。
この小説は、南北戦争直前くらいの、ヴァージニア州を舞台としている。タバコ農園が連作による土地・地力の衰えからダメになっていき、ヴァージニアの白人農園主階級は崩壊しつつある。そのため、唯一の資産である黒人奴隷を、より豊かな新しい南部の農園に売ることで、なんとかしのいでいる。
こうした崩壊しつつある白人農園の黒人奴隷たちは、いつなんどき、家族ばらばらにされ、より過酷だと思われるより南部の農園に売られるか分からない、そういう状況にある。
主人公ハイラムはおそろしく記憶力がいいのに、母親のことだけ覚えていない。母親はハイラムが幼い時、南部に売られてしまったようだ。そのときの記憶があまりにつらかったために、母親についてだけ記憶が欠落してしまっている。
この時代、北部では、黒人は自由市民として生きていくことができるようになっている。そして、南部の奴隷を北部に逃がすための「地下鉄道」という活動をする人たちがいた。これは実話であり、それをテーマにした小説や本を僕も読んだことがある。失敗して南部に戻されたり、死んだりする人もたくさんいたわけだが。
南部から北部に鉄道で逃げるというと、ものすごい長距離を隠れて移動するのかなあ、となんとなくイメージしてしまう。これは以前にも書いたが、南北戦争をイメージするときに「南部と北部」というと、すごく離れているイメージをしてしまうことと関係している。南部の代表格をジョージア州アトランタとか、ミシシッピ、ルイジアナ、テキサスとかすごく南の州を意識してしまうからだと思う。
しかし、南北戦争のときの北軍のほうの首都、ワシントンDCと、南軍のほうの首都、ヴァージニア州のリッチモンドは、隣り合った州、直線距離で150キロくらいである。ヴァージニアからの地下鉄道での逃げる先、フィラデルフィアもペンシルバニアの南東端にあるから、ワシントンDCに近い。メリーランド州のボルチモアもフィラデルフィアの隣である。この小説の舞台となるこれらの地域、都市は、関東一円くらいの範囲である。そういう距離感の中で、南部から北部に逃げる、逃がす「地下鉄道」というのが機能していたのである。
なんとか北部に逃げ出せば自由になれる。しかし、何もせずにいたら、より南部に売り飛ばされればより悲惨な境遇が待っている。そういう時代と場所、ヴァージニアを舞台とした小説である。
そして、この「地下鉄道」、普通は文字通り、鉄道を使ったりするのだけれど、この小説の場合、ある種の「超能力」を持つ人が出てきちゃうのである。物理的方法を使わずに、人を運ぶことが出来る人が。そして、主人公、ハイラムにもその能力があるのかも。
ということで、この小説、南北戦争前の歴史的事実を舞台にしつつ、現代小説的な、なんというか「奇跡」というかそういうものを含んで、展開していくのである。
その能力の発現と、母の記憶の欠落のあいだをつないでいく物語である。
作者タナハシコーツは、もともと批評やコラムを書くライターとしてスタートし、出世作の『世界と僕のあいだに』も、息子への手紙という形式をとった、自叙伝であり、アメリカの黒人差別の社会構造についての告発の文章であって、小説ではない。この『ウォーター・ダンサー』が初の小説である。
なので、初めての小説らしい力み、言いたいことを全部入れようとするし、話の展開はぎくしゃくするし、そういう小説の技術的欠点はたくさんある。あるいは、言いたいことが溢れすぎたりする。
なかでも、「いやこういう視点も持っていることを書いておかねば」みたいなに、主人公が北部でいろんなマイノリティの活動家が集まるイベントに参加して、女性活動家からネイティブアメリカンの活動家から禁酒活動家から子供の権利を訴える人たちまで、いろんな活動家がいることを知る、なんていうエピソードまで挿入される。いやそこまでして、自分がポリティカルコレクトネスの視点で、いろんな問題や活動は分った上で、黒人の問題を主張しているんだ、という言い訳のためのパートを設けなくてもいいじゃあないか。と最近の日本人若手小説家によくある、とってつけたように唐突に性的少数者のサブエピソード挿入してある小説を読んだときのような気持にもなった。
そんなことも含めて、「初めての小説」らしい気負いはあるものの、少年から青年「大人の男になる」(男になる、とどうしてもタナハシ・コーツも、主人公ハイラムも言いたくなり、そのたびに女性についてどう考えるかの問題にも何度も突き当たる主人公を描くのである)、そういう成長の物語としてよくできている。読みにくいけれど、最後、清々しい気持ちになる小説ではある。
アメリカの奴隷制における黒人差別の問題、今も続く問題のもとにあることをもちろんテーマにしているのだが、そこからはみ出る部分に、タナハシ・コーツという作家の誠実な未熟さ、とでもいうものが感じられる。
別のほめ方をすると、社会の構造や問題についての怒りを描くという部分については、いろいろ受け止め方はあると思うのだが、人間、登場人物が、全員とはいわないけれど、主要登場人物の人となり、気持ち、そういうものが、ちゃんと描けている。大事な人物はちゃんと生きて動いている。誰もが、強いし、弱い。みんなある種こまったやつだったりする。それは初小説としては、なかなかすごいことだと思う。
みんなに勧めるかというと、勧めない。うん。まずは『世界とぼくのあいだに』を読んだほうがいい。そうじゃないと、なんか、きれいごと、きれいなファンタジーとして読まれちゃいそうな危険性もあると思うから。アメリカでだって『世界と僕のあいだに』の作者の初小説ということだから、絶賛され、ベストセラーになったんだと思うのだよな。
感想おしまい。
これはアメリカの黒人問題を描いた小説としてはすごく好き。
これも好き。
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