『ウクライナ動乱――ソ連解体から露ウ戦争まで 』ちくま新書 松里公孝 (著) 北海道大学でこの本をめぐるセミナーがあったと友人が教えてくれた。せめて本だけでもと読んでみた。新書なのに500ページ!!この戦争理解の解像度が上がる。おすすめ。
『ウクライナ動乱 ――ソ連解体から露ウ戦争まで 』(ちくま新書 1739) 新書 – 2023/7/6 松里 公孝 (著)
Amazon内容紹介
これではなんだかよく分からないよなあ。Amazonだとレビューに非常にうまく内容、ポイントをまとめているThomasGGさんという方がいるので、この方のAmazonレビュー参照されるのがいいと思います。
僕なりに、本書最終章から、著者の基本スタンスがわかる部分をいくつか引用。
ということで、著者、松里教授は、2014~の、混乱のクリミア、人民共和国成立の混乱と戦争の渦中のドネツクに研究のため取材にいき、現地の要人に取材インタビューをたくさんするのである。その様子も本書のあちこちで臨場感ある描写があります。有名有力者だけでなく、無名の市民の様子もいきいきと描かれています。
あとがきから
著者、松里氏は東京大学大学院法学政治学研究科教授、ロシア帝国史や旧ソ連圏の現代政治の専門家である。
ロシア・旧ソ連研究の権威、塩川伸明東大名誉教授が編者として出した『ロシア・ウクライナ戦争』東京堂出版2023年10月でも、松里氏は第二章「ルーシの歴史とウクライナ」を書いている。(次に読んでみようと買ってある。)
そういう、地域研究の、明らかに第一人者が、戦争開始以降テレビやらで語られるこの戦争の捉え方全体が、上の引用でも分かる通り、いろいろ違うと思っておられたのであろう。
そういう気持ちで書いた本と言うことである。別に「ロシア寄り」とか「プーチン寄り」とか言うことでは全然ない。現地の複雑な事情を、部外者にも分かるように、しかし単純化したりせず、理解するのに必要なことは省かず書こうとしてくれた本である。そのために「ご覧のように非常識な分量になってしまった」とあとがきにある通り、新書なのに500頁もある。非常識もいいところの厚さと中身の濃さであった。読むの大変でした。
この本を読んだ直接のきっかけは
北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターで今月18日にこの本の内容を中心に「ウクライナ戦争と旧ソ連圏」というスペシャルセミナーがあり、松里氏がメイン報告者で、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターの服部倫卓教授、宇山智彦教授がコメンテイターという顔ぶれ。さらには塩川先生まで参加されていたのである。これにFacebook友人の経済学者、N先生が参加されていて、すごい激論が交わされたとのことをN先生Facebook投稿で知り、さらにコメント欄での先生たちのやりとりを拝見した。
私は門外漢ではあるし、激論は聞けなかったけれど、どんな本なのか、まずは読んでみよう、と思ったわけなのである。N先生、ありがとうございました。
◆僕の「映画館の椅子のひじ掛け」論を、本当にちゃんと学問として研究してることに感動しつつ読んだ。
戦争はどうして起きるのだろうということを、自分の頭と言葉でここ数年いろいろ考えて来て、とりあえず、「映画館の椅子のひじ掛け論」というところまではなんとなくたどり着いた。国と国の間には、どっち側の民族、言語、宗教などをもった人が混じり合って暮らしている地域というのがあって、どっちが先だとか、どっちが多いとか、どうしても争いが起きてしまう。イスラエル、パレスチナの話も、フランスとドイツの間のアルザス・ロレーヌ地方も。そういう「ひじ掛け」問題というのを解決する知恵というのをどうしたら人類は持てるのだろう、そんなことをずっと考えている。
松里先生専門の「ソ連崩壊後の問題」というのを僕なりに理解すると、ソ連というのはその歴史的の成立経緯のために「民族領域連邦制」という特殊な共和国の連邦制をとった。多民族の広大な領域をひとつのソ連にまとめていくために、そういう制度を作り上げた。のだが、その後遺症として、ソ連崩壊後に、通常よりさらに複雑な、こじれた「ひじかけ問題」を残した。多発させたのである。
旧ソ連を構成する「なんとか共和国」というのは、各領域の主人公・基幹民族というのを無理やりにも決めて、その基幹民族が他の民族の面倒を見るという仕組みだったのだそうだ。でも実際は、各地域ごとに、民族がはっきり自覚されていない場合も多かった。のを「民族範疇を国定する」「民族識別工作」というのを無理やりして、この共和国は何人が基幹民族、と分けたのである。
だから、旧ソ連の各共和国、その名前の民族がいることになっているが、それは「民族識別工作で国定された民族範疇」ということで、ほんとにそういう民族としての自覚があったかとか、それに入らず基幹民族以外にされた少数民族たちとの間に、実態的に本当に大きな差があるか、とかいうのは微妙という場合もある。それなのに、基幹民族は基幹民族だから政治や経済の中心にいて、それ以外に指定されちゃった民族は恵まれない立場におかれる、ということがいろいろ生じていた。
あるいは本書で指摘されているのは、基幹民族が「共和国リーダーとして地位を自覚し、マイノリティにも目配りをしながら多極的共存的な統治を行え」「弟や妹に気を遣うよき長兄・長姉であれ」と要求され、「利他的にふるまわなければいけないということで自分たちは損している、と感じるようになった」というのだな。グルジアでは基幹民族であるグルジア人よりマイノリティであるオセチア人の方が人口増加率が高い、とか。そういう中で「グルジア人はグルジア人のために」などの過激なスローガんを掲げる民族主義者が人気を集めるようになった。
なんか、これ、アメリカでのマジョリティである白人男性が、マイノリティの権利を重視するポリコレ、アファーマティブアクションなんかが一般化する中で、「自分たちは損をしている」と感じるようになり、というトランプ支持者の気持なんかと通じるようなところがある。
ロシア人も旧ソ連全体の長兄としてふるまうことを損だと感じ、「ロシア人は、中央アジアやバルトやコーカサスとは縁を切って、天然資源を西側に輸出した方が自分たちは豊かになれると考えるようになった」という。この部分を読んで、プーチンとトランプの間の共感の回路がちょっとわかったような感じがしたのだな。話は脱線したが。
話を戻そう。民族領域連邦制のソ連の話。基幹民族と少数民族に無理やり分けた、というところまで話した。
これに加えて、ロシア人が各共和国に、いろんな産業の技術者だのなんだので移住していくから、各民族共和国に、基幹民族、基幹民族じゃない少数民族、それからロシア語話者、ロシア人なんかが混在して住むようになっていた。例えば原発をある民族共和国に建設すると、そこに技術者集団としてロシア人がたくさん移住してきて、ロシア人が多い都市とか地域がソ連時代にできちゃう、みたいなことが起きるわけだ。
そんなわけで、各共和国の中でも地域によって、その民族の言葉とロシア語話者と少数民族の言葉話者が混在したりすみ分けたりという状態になっていたわけだ。ウクライナの中にウクライナ人とロシア人、ロシア語話者とウクライナ語話者がいて、言語以外にも、西部にはカトリック系が、東部や南部には正教系がいてとか、そういうことが起きるのだな。クリミアにはロシア人とウクライナ人とクリミアタタールが混在しているわけだ。
しかも複雑なのは、基幹民族を決めるのに、「多数派が基幹民族」ではなくて、「先住者が基幹民族」という原則があることなんだな。だから、人口の大小と権力関係が逆転したりしていると、ますます問題は複雑化するのだな。
そういう各共和国が、ソ連崩壊で独立する。
もともと、ソ連>各共和国(基幹民族)>少数民族地域とロシア系住人の住む地域、という構造だったのか
ソ連はなくなり、ロシアが各共和国のに対してリーダーのようにふるまおうとする>各共和国がロシアからの独立性を高める(西側に入ろうとしたりしがちである)>少数民族地域が各共和国から独立しようとしたり、ロシア系住民が多い地域がロシアに戻ろうとしたりする(紛争地域化→非承認国家する)。
でね、エリツィンは、「ロシアは各共和国のリーダー、お兄さん(として扱われたい)なので、各共和国を大切にした。が、プーチンは、各共和国と対立して紛争地域に肩入れするというスタンスを取るようになった。グルジアとの戦争でも、今回のウクライナ戦争でもそう。もう、旧ソ連圏のリーダーであろうというのを半ば放棄して、より広範囲での、ブリックスだのアフリカ諸国だのという、自分を大切にしてくれる仲間がいればいいと思い切るようになった、というのだな。
グルジアの中の南オセチアとアブハジア紛争と、モルドバの中の沿ドニエストル紛争、アルメニアとアゼルバイジャンの間のカラバフ、全部、このソ連崩壊による、各共和国の中の非基幹民族やロシア(語)系住民地域が、独立したりロシアに戻ろうとする形で分離政体→非承認国家化するという問題としてある。と松里氏は見る。もちろんひとつひとつの紛争で、前提となる条件、事情も、その後の経緯も異なる。ロシアの関わり方も、現地の政治家や権力者、有力者の動き異なるので、それぞれ異なる経緯をたどっている。ただ、大きな流れとしてはそういう理解が必要だ、ということ。
そしてウクライナにおけるクリミアとドンバスの問題も、こうしたソ連崩壊後の、各共和国内の紛争地域→非承認国家問題という基本フレームで理解した上で、細かな事情と経緯を見て行かないと、理解できないよ、ということなのである。
単純化しちゃいけないから、松里氏も「新書なのに500ページ」になっちゃっているので、僕が勝手に単純化したら申し訳ない。まずは読んでみてね。いやほんとに、ウクライナ戦争についての見方が、あるいはひとつのニュースを聞いたときに見えてくる精度が、全然違ってくる。それは間違いない。
読みやすいかというと、かなり読みにくい。のは、松里氏、書いているうちに、「そこは素人には分からないよ」というところについつい踏み込んでいって力が入る傾向がある。ので、ときどき「もう無理、分からない」と読み飛ばしたところがある。正直に告白すると。
それから、本の作りとして不親切。「話題にする地域の地図とか、基本的な年表とか、参照しながら確認できるようなページ」が無い。足りない。こちらはウクライナの専門家じゃないので、ときどきそういうので確認しないと分からなくなるのよ。
でも、それでも最後まで読み切れたのは、この松里氏という人の、ときどき熱くなる正義感、みたいなものが迸るところがあって、好感が持てるからなのである。僕は文学読みなので、文学としてときどき面白いのである。本筋とはあんまり関係ない所なんだけれど、好きだなあと思ったところを引用して、なんでそこが好きかを説明して、とりとめのない感想文、おしまいにしますね。
引用するのはユーロマイダン革命のときのヤヌコヴィチ大統領がキエフから逃亡したときの話。二章「ユーロマイダン革命とその後」の一節である。
西側メディアや日本での報道だとヤヌコヴィチのことをロシア傀儡大統領みたいに語るしデモ隊弾圧の張本人みたいに批判するけれど、松里氏はわりと中立的に語っている。のだけれど、この最後に逃げたところが、気に入らないみたいなんだな。引用します。
チリのアジェンデ大統領(民主的に選ばれた世界で初めの社会主義政権の大統領)が、アメリカCIAに支援されたピノチェト将軍のクーデターで大統領官邸に追い詰められ、立てこもり、最後まで官邸を離れず自殺した(一節には殺された)ことを、松里氏は思ったのかなあ。チリの小説をたくさん最近読む僕は、このことを考えてしまった。アジェンデ大統領は大統領官邸を離れず死んだことで、その民主的正統性、正義がアジェンデ大統領にあるということは世界中に知られたし、歴史に残った。ピノチェトの方こそアメリカの傀儡だったことは、今では誰でも知っている。
ヤヌコヴィチが逃げたことで、世界の(少なくとも西側世界の)印象は、マイダン革命、市民側に理があり、ヤヌコヴィチはロシア傀儡で、しかも暴力で市民を弾圧したんだろうという印象が残った。両者を公平に描きたい松里氏としては、「なんで逃げたんだ、それじゃダメだろう」という思いがここでこみあげてしまったのではないかなあと思う。そうでなければ、「なぜ自決しなかったのか」なんて書かないよね。
というわけで、ものすごく長いし、細かい点に入り込むことも多いけれど、松里氏の語りが、熱い思いが、ところどころ、迸るという面白さがあったので、なんとか最後まで読み通せました。
とにかく、ウクライナ戦争を語るなら、読もう。500ページだけど。読んだ方が良い。