『街場の米中論』内田樹 (著) 教養人の雑談を聞いている感じで楽しく読める。米中関係ではなく、米国・中国、それぞれの基本的な趨向性(あるいは戦略)を、歴史だけでなく、文学映画音楽など幅広い視点から論じていく本。帯には「地政学」ってかいてあるけど、そうじゃないと思う。
『街場の米中論』 2023/12/6
内田 樹 (著)
Amazon内容紹介
ここから僕の感想
まずね、僕は内田樹氏のことが好きなのである。最近のネット批評空間では内田樹氏は極めて風当たりの強い、批判されやすい立ち位置にいて、そのことも僕が内田氏が大好きな理由である。
まず、「エビデンスは?データは?」「それはあなたの感想でしょう」と言い立てることで「論破した」と満足する(俗称をエビ厨というらしい)に攻撃されやすい。彼らはたいてい、人文的知というのはエビデンスに欠けるただのあなたの感想に類したものと思っているわけであるが、そんな批判はものともせず、歴史や文学思想や、ときに映画やポップス音楽までの幅広い知識を横断しながら、「こういうものの見方をすると面白いでしょう。」ということを淡々と語っていく、その論じ方のスタイルが好きなのである。
かつての新書デビュー作かな『日本辺境論』以来、基本的にそのスタンスは変わっていなくて、あの感じで、アメリカと中国について、自在にゆるゆると語っていく本である。ちょっと知られていない事実と、自由な考え方で。まあ、およそ学問的ではないが、「思想的」ではある。
もうひとつ、ネトウヨ的保守派からの「サヨク・パヨク」攻撃の標的にも内田氏は頻繁になるのだが、これについては堂々と、左翼的知識をちりばめて、「まあ、サヨクですが、何か?」みたいなスタンスである。これもかっこいい。アメリカにおける「赤色恐怖」(いわゆる赤狩り)の三人のキーパーソン、ミッチェル・パーマー、J.エドガー・フーヴァー、ジョセフ・マッカーシーについて詳しく論じてくれたり、マルクスが1852年から61年まで、アメリカの「ニューヨークトリビューン」という当時ニューヨーク最大の新聞のロンドン特派員になっていて、400本もの記事を書いていたことから、アメリカ史のある時代を論じてみたり。
この本「米中論」となっていますが、米中関係を論じているのでなく、米国について8割、中国について2割くらい、それぞれについて論じている本なのですが、中国についても、「別に自分は中国ウォッチャーなわけではないが」、と断りつつ、古今、様々な時期の中国や中国共産党のあり方に言及しながら、その未来予測などを語っていく。
ここで脱線するが、先日、中国SF『三体』の、中国制作のテレビシリーズ全三十回を結局全部見終わったのだが、文化大革命時代の描き方とか、出てくる政治組織の描き方なんかが、「おおお、中国制作だとこういう規制がかかるのか」とか「SF的政治組織の内部党派対立を描いているのに、これ、共産党内の対立みたいでえらい面白いな」とか思いながら見終わったのである。そういう、中国と中国共産党の独特のあり方、みたいなものが、この本の内田氏の分析でも出てきていて、びっくりした。分かりにくいか。具体的に引用しよう。
「赤軍では総司令官から兵士に至るまで、基本的には全員が同じものを食べ、同じ服を着て居室にも大差がなかつたとスノウは報告しています。それは革命目標である「平等の実現」をいまここでおこなわなければならないという倫理的理由もあったでしょうけれども、もう一つの実利的な理由として、赤軍の将校の死亡率が高かったことがあると思います。赤軍では、兵士の先頭に立って危地に突っ込んでいくせいで将校の死亡率は時に50%に達しました。」これは「欧米のジャーナリストで最初に毛沢東に面会したエドガー・スノウはその「中国の赤い星」で1937年時点長征の後に延安に拠点を置いた赤軍の実相を伝えています」ということなんだけれど。で。ドラマ『三体』でも、危険な任務となれはなるほど上官が自分で行こうとする、という赤軍の文化を利用して、ある人物を…と言うようなシーンがあったのである。ついこの日曜日に見たやつで。それは文革時代のことだけれど。
こういう細かい知識と、大きな政治状況の変化を読むことがいったりきたりして本は進むのである。
というわけで、本の帯には「ウチタ流地政学」とか書いてあるが、まあ全然、地政学ではない。厳密な学問的な本ではない。教養人の雑談、あっちにいったりこっちにいったりしなが雑談雑談を聞いているような、そういう本である。
若いエビデンス主義者は「それが何の役に立つのか」と問うのだと思うが、別に役には立たなくていいのである。本を読むことの意味を具体的に短期的に「役に立つ」とか「損得」という視点でしか考えられない人は読まんでいいと思う。
自分が今生きている世界のあり方について、少しでも考える視点を豊かにしたい、と思う人であれば、「えー、内田樹ー」と言わないで、読んでみて損はないはずである。成田悠輔の本『22世紀の民主主義』でも東浩紀の本『訂正可能性の哲学』なんかでも「えーー、あの人って××なんでしょう」といって読もうとしない人というのは、すごく、ほんとに損をしていると思うなあ。あー、損得じゃないといいつつ、こういう言い方になってしまった。しまった。しまった。
※いま挙げた人たち、内田樹氏のこの本もそうだが、高度に知的で柔軟で自由である。学問的に厳密かといったらそうでないが、実は相当に価値中立的である。レッテル貼りをしたがる人が思うほど立場は偏っていない。僕は今、ジョゼフ・ナイ・ジュニアの『国際紛争 理論と歴史』という、大学生初学者向け国際政治学の教科書定番本をお勉強モードで読んでいるのだが、(これはこれでかなり面白いのだが)、実際の授業だと先生の脱線、雑談が挟まると思うのだが、教科書はそうではない。まともな教科書タイプの本を読むときに、雑談タイプの本を並行して読むというのは、結構大事だと思うのである。楽しくないとお勉強って続かないからなあ。