記憶

髪を切ってもらっていると、店の入口から静かに水が入りこんできた。透明な水は複雑に光を反射しながらするすると店の中に広がって、ちょうどくるぶしぐらいまでの深さになった。店の中にいる人は誰も気づいていないみたいだった。

水は暖かくも冷たくもなかった。

店を出て、少し高くなった丘の方に向かった。ここには水はきていない。午後の空も丘も、いつもより少しオレンジ色がかって見えた。

丘は住宅街になっている。ある角を曲がったとき、6、7歳ぐらいの子どもが石垣を背に立っているのが見えた。

どうしたの?大丈夫?

先生のところまで連れていって欲しい

「先生?」
「そう、林先生」
「林先生?」
「大学の先生」
「お家はどこかわかる?」
「わかる」

手を引かれるまま一緒に歩きだした。歩きながら見上げた空は、心持ちさっきよりもオレンジ色が濃くなっていた。

手のひらや指に伝わってくる感覚-暖かさや柔らかさ-は、何故かとても良く知っている感じがした。

この子、知らない子だっけ?

「林先生ってどんな人?」
「先生はすごい人。なんでもわかる」
「そっか。すごいね」

引かれるままゆっくりと坂を登る。

目指すお宅は住宅街の一番奥の方にあった。庭の中央には立派な樹が生えていた。樹齢はどれぐらいだろう。造成した後で植えられた感じではない。人が住みつく前から長い間そこに生き続けている樹。その樹とうまく調和するように庭がデザインされていることがすぐにわかった。

その子と先生は仲が良いらしかった。私はすぐに帰ろうと………したけれど、先生がお茶を勧めるのを聞いて残ることにした。

樹の横にはちょっとしたテーブルが置いてあり、そこに三人で座った。繁る葉は、この季節に陽の光をよけるのにちょうどいい。二人は、おそらくいつもそうしているのだろう、テーブルを挟んで向かい合わせに座り、私はその子の隣に座った。地面に飛び出している根っこのために椅子が少し傾いていて、私は、身体の片側に樹のざらざらした暖かさを、もう片側にはこちら側にもたれてくる子どもの滑らかな暖かさを感じていた。

「この人とはどこでお会いしたの?」
「下の大きな石のおうちのところ」
「あー、あそこかあ。それは良かったね。」
「こまってるといつもきてくれる」

そうだ。
私はこの子を知ってる。

よく夢に出てくる子だ。明け方近くに見る、まるで現実のように感じられる夢の中に。


「あの、もしかして…」言おうとして、先生の言葉とかぶる。

「ちょっと登らない?」


先生は、こちらを見ているんだけど、どこかピントの合ってないような、遠くを見てるような不思議な喋り方をする。目が悪いのかな。


子どもがクッキーをほおばり終えるのを待って、家の裏の方に並んで歩いていった。とても暖かい小さな手にしっかりと繋がれながら。

家の裏は木が茂った少し高い土地になっていて、階段で登れるようになっていた。ちょうど家の屋根の高さあたりまで登ったところに広場のような場所があって、その際の階段に並んで座った。

「妹の子どもでよく遊びにくるんです。あの家は私と妹が育った家で」
遠くを眺めながら先生がふと話をした。

「そうなんですね。あの…おかしな話なんですが、彼女は私の夢に出てくる子とすごく似て…」

先生が眺める方向をふと見た私は、驚いて喋れなくなってしまった。


こ こ は ど こ だ ろ う ?


家の屋根の向こうには水面が広がっていた。いくつかの高架道路が水面を横切り、ところどころ、ビルやマンションに見える高さのある建物が水面から突き出していて、傾いてきた陽に照らされている。

どういうこと?



「大丈夫」

初めて聞く声がして抱きしめられる感覚があった。

「大丈夫だから」

さっきまで一緒にいた子どもも先生もそこにはおらず、中年に差し掛かるぐらいの歳の背の高い人に抱き止められていた。あ、でも…この人はあの子だ。あの子が大きくなったんだ。

「久しぶり。ずっと待ってた」
「先生は?」
「先生はいないよ。今は私が先生をやってる」
「え?」
「時間があまりないみたい。聞いて」


子どものころ、私が困っているときにあなたはいつも来てくれた。あなたがどういう人なのかは知らなかったけれど、とても優しくて心を預けることができた。あなたはいつも遠くを見ているようでうまく話をすることはできなかった。よくよく聞いてみると話している内容はお年寄りのようでどこかおかしくて、少し昔の時代の人のようだった。先生と一緒に裏山に登った日を境にあなたとは会えなくなったけれど、大学に入って1世紀ほど前のことを調べていたときに、偶然、あなたを見つけた。あなたは、思ったことや感じたこと、身の回りであったこと、ポートレートや風景などをたくさん記録して残していた。ポートレートの笑顔は、本当に、私を助けてくれたいつものあなたそのものだった。今度は私があなたを助ける。

わたしのことを思いながら書き続けて。自分自身や身の回りで起きたことを。わたしは少しだけ離れた未来でそれを受け止める。そして、ときどき、今みたいにそっとあなたの夢の中で話しかけるから。


屋根の向こうには水面が広がっていて、そこには青い空がうつっていて、風が吹いているのだろう、水面の揺らぎがゆるやかに広がっているのが見えた。


*****

2週間ほど前に見た夢を書きました。今から1世紀ほどあと、温暖化で水面が上昇した世界の夢でした。この世界の夢は、昔からたまに見ます。





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