記憶の殻
ここしばらく書き続けているように、思わぬことから解離性障害らしいことがはっきりとしてきた。思わぬことと簡単には言っているが、あれは本当に酷い出来事だった。そのときの感情は、もう元の場所に埋まっていて表立って感じることができないが、出来事自体はずっと忘れることはないと思う。
ところで、解離性障害が原因と思われるいろいろなことのなかで何が一番、困惑することだと思います?
これはあくまでも私の場合だが(解離性障害は人によって多種多様らしい)、身体とは違う性別の人格が表(現実)に近いところにいつもいることではなく(彼女たちは私を守っているのだし、感覚を豊かにしてくれている)、記憶のシステムが壊れてしまっていて、どうやら普通の人とは違っているらしいことかもしれない。まあ、実のところは、普通の人の記憶がどうなってるかを知っているわけでもない。だから実際は何も違っていないのかもしれない。
勝手な想像だが、普通の人の記憶は時系列に並んでいるんじゃないかと思う。物心のついたあたりから現在まで。昔の出来事について、よく、懐かしいとかセピア色とかいったりしますよね?だから、多分、時系列なんじゃないかと思っている。遠い過去の記憶は霞んでぼんやりしているみたいな。
一方、私の記憶は、時系列には並んでおらず、今の自分を中心としてすべての記憶がランダムに同じ距離にある。感覚としては、記憶のセル(引き出し)が内面に並んだ中空の球(殻、シェル)の中心に自分がいる感じ(ただし、不要と判断されたものについては時間の経過に伴って普通に消えていくし、埋められた記憶はそのパスだけがセルに格納されていて普段は鍵がかかっている)。どの記憶にでもすぐに手が届く。そして、距離が同じである分、それぞれの記憶は全てが同じように生々しい。5歳のときの記憶も先週の記憶も同じ感じがする。懐かしい感じはしないし、色褪せたりもしない(周囲と話を合わせるために「懐かしい」と言うことはある)。それぞれの記憶にはタイムスタンプが押してあって、知識としてはいつのことかはわかるし、時系列に並べることもできる(知識なので、タイムスタンプが次第にかすれて曖昧になることはある)。ただ、感覚としては、みな同じなのである。
これが原因なのか、直接的にしろ間接的にしろ、トラウマに関係すること(例えば、成人後の母親との会話や職場)では、たまに記憶の混乱が起きる。そして、デジャヴやジャメヴも起きやすい。
こういった記憶の構造は、命にかかわるであろう危険に対する動物の防御機構が解離らしいことを考えると、理解できる気がする。ランダムに配置された記憶のセルに取り囲まれていれば、類似の出来事が起きたときに素早く対応できるかもしれない。ちょうど、免疫機構みたいに。ただ、幼少時から成人するまでの間、のべつくまなく脅威に晒され続けたことで、過剰適応となったのだろう。きっと。
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ネガティブな人格も普通にいることに気づいたので、noteの記事の中でお勧めされていた本を読んでいる。
お勧めされているのも納得で、確かに、この本はとても参考になる。ネガティブな人格(この本によれば「パーツ」)も私を守ることが本来の意図であることがよくわかった。しばらくはこの本を参考にしようと思う。
ところで、私がノンバイナリーであることが生まれつきのものであるか、解離の結果、後天的にそうなったのかが気になりますよね。私は気になる。少なくともジェンダーフルードには彼女たち(特に23番)が影響してるようだし。
この本の125ページに、もしかしてヒントになるかもということが書いてあった。
無秩序型愛着に晒された子どもたちにとって、本来は必要なはずの(でも得られない)愛着への依存を抑える(「ない」ことにしないとその環境では生き延びられない)方向に、性別による傾向の違いがあるらしい(ただしここでの性別が何を意味しているかははっきりしていない)。
私は、明らかに「操作的な世話焼き」戦略を選択していた。そこからすると、生まれつきノンバイナリーだった可能性が高いのかもしれない。記憶/分析ペアによると最初の解離は2歳ごろだったらしく(2歳だけ、青くてちょっと怖いフォントで感じられる)、このことは、生得的なノンバイナリーであったことを示唆しているようにも思える。
しかし、全然関係ない話だけど、「操作的な懲罰」をやってる大人たちって本当にその辺にごっろごろ転がっていますよね。掃いて集めて焼却炉で燃やしたら1万年燃え続けました、ぐらい。あれは、本当にみっともない。
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ちなみに、ポジティブな人格に限らず、ネガティブな人格にも女性が多い気がする。自分自身のことながら、とても不思議に思える。解離が進み続けたと思われる2歳以降、女性からの攻撃を主に受けることが多かったからかもしれない。あるいは、安定した愛着を与えてくれる者が周囲にいない中で自分を守るために女性の人格を作り出し、それが成功し、その後の解離が進む中で彼女を幹に複数の人格が分岐していったのかもしれない。私の場合は、人格の分岐や年齢の変化(ジャンプ)があるようだし。
ああ、でも、今これを書いている自分は、生まれたときの自分ではない感覚がある(どこかのタイミングで入れ替わっている感じがする)のは変わらない。記憶の殻によってタイムラインは保たれていて、日常生活には何の問題もないので構わないといえば構わないのだが、どこか寂しい気がする。やはり、安定した愛着が得られる家庭で育ちたかったという思いは常にあって、それは、街でそういう家族を見かけたときにとても穏やかで幸せな気持ちになる(多分、23番をはじめとする彼女たちが自分を投影してそう感じている)ことにつながっているのだと思う。