死と時間との関係についての試論

※卒論演習発表原稿
問い「個人にとって死、時間、様相は何であり、どのような関係にあるのか?」

序では死を断絶として特徴づけ、それを時間のあり方と類比的に論じる。時間と様相は深く結びついた概念であるため、それは様相における断絶とも関連付けられることになる。また、本稿で論じる時間は、個人的なもの、主観的なものに結びついていると思われるので、様相といっても中心は各個人にとって可能性はどのように開かれるのかという点にある[1]。1ではジャンケレヴィッチ、ベルクソンの議論を参照しつつ、メイヤスーの議論に介入する形で時間における断絶と死とを類比的に論じる。2ではネーゲルの議論を参照しつつ、死を可能性の終焉として特徴づけ、誕生における断絶として命名儀礼と類比しつつ、時間の一方向性、時間と様相の関係について瞥見を加える。(とはいいつつ、整理出来ていない部分が多いのと、テーマを絞りきれていないのでその点でもアドバイスいただけると幸いです。)

序.断絶としての死

死は存在と無との境界にあるものであるため、架橋することの出来ない断絶としてある。この断絶を時間のあり方と関連させて論じる。ジャンケレヴィッチは自分自身の死を(二人称であれ三人称であれ)他人の死と区別し、特に三人称の死のような一般的、統計的に把握されるものとしての死と一人称の死との違いを剔抉しようと試みていた[2]。そして、死を一般的なものとして捉えることの拒否は彼の時間に関するベルクソン的な見方から論理的に導出されている。つまり、自分自身の死は類例のないものであるため実際に起こるまでそれがなんなのか分からないが、実際に起こった時最早生きてはいないので、死を回顧的な観点から人生に位置づけることは出来ないのである[3]。ベルクソンの時間論は時間の捉え方を完了相と未完了相に区別するものであり、未完了相こそが本来の意味での時間であるとするものであるが[4]、死とはことの本質からして決して完了相として捉えることは出来ないという点で時間のあり方と似通っているのである。この論点を敷衍する形で以下では、時間における断絶、主体における断絶について検討し、私たちがそれらの断絶をどのように縫合して日常的な世界像を形成しているかを明らかにしたい[5]


1.時間における断絶

ヒューム以来哲学上の大問題として因果性が繰り返し論じられてきたことはよく知られているが、何故哲学者がこと因果性などという問題に関心を引かれるのかという点には実のところ死が関係しているのではないだろうか。因果性という考え方は過去、現在、未来における同型性を前提としているが、死を断絶とする見方からすれば死の瞬間は常に未完了相にとどまるために、過去、現在、未来を眺め渡してそれらを類似したものとして見ることは出来ないのである。メイヤスーが近年になって再びこの因果性にまつわる問題を取り上げている[6]ので、その議論を検討したい。彼の論点は大まかに2つある。1つは、因果的必然性と論理的必然性を区別して、世界を単に論理的必然性だけから見るのであれば、因果的必然性を要請することは当然非合理的になること( p.48)、2つ目は、因果性を法則が変化することは考えづらいという意味での蓋然性に訴えて擁護しようとする場合には、私たちが知っているのはこの世界であり、この世界を諸世界の1つとして確率的に捉えられるような見方はないということ(pp.53-58)である。

本論での議論と関連させる意味で第1の点について検討すれば、過去、未来、現在を類似したとのとして見る完了相の観点においてはそれらを類似したものとして見ることによって内容的なつながりが作られるのでそこから因果性の形式を見つけ出すことが出来るし、完了相的な見方を徹底すれば宇宙はその終点から眺め渡して見られなければならないからその因果性は必然的になる。しかし、未完了相的な見方を徹底化した時それが論理法則の制約を受けるのかは疑問である。論理の規範性について考える時、1つの特徴づけとして、論理は可能世界をまたいでも成り立つ、ということが言えるはずである[7]。それはそもそも世界の歴史、つまり、偶然に成り立っているような内容、を抜きに可能性を考える時に可能世界の概念が登場する、という意味では当然なのだが、世界の内容を捨象するに際して、論理のレベルも捨象して考えるということが不可能であるということでもある。おそらくこれは、私たちが可能性について考える時、あくまで反事実的な可能性のレベルから始める他ないからであろう。反事実的な可能性は現実世界でたまたま成り立っていることに、否定を始めとする論理的操作を加えることで成立するが、否定の場合に顕著なように、否定に否定という操作をすることは出来ない(その場合には、私たちの操作レベルで否定が否定されていないのであくまで、現実世界と反事実的な可能世界の間で否定が残される)[8]。未完了相的な見方において論理が必然的かはより慎重に考えるべきだが、あくまで時間を世界の形式として残しておくのであればそれに関してこの問題と同型のことが起こるのではないか。時間における内容と形式は、可能性の内容と現実からの抽象によって可能性を開くために必要な論理という形式、と類比的であるので、未完了相的な時間を、現在と次の瞬間に内容的なつながりがなくても良いものとして見た場合には、時間におけるあらゆる内容的変化(メイヤスーのいうように、いきなり世界から斉一性が失われたり。)はおこり得ることになるが、それが時間という形式における変化であることは揺るがせられなくなる。(とはいえ、時間と変化とは独立した概念であると考えることもできる。例えば、「時間がなくなる」といった変化は、変化の後には時間がないのだから、通時的でない、時間と独立の変化である。これは時制主義者が変化を捉えられないことと同根の問題であろう。[9])死を考えるに際しても、死という断絶を内容における断絶と捉えるか、形式における断絶と捉えるかによってレベルは異なる。内容における断絶であれば、形式(例えば主体)は保存されているが、形式における断絶であれば、それはそれらを見通す方法が有り得ないような変化であることになる。

第2の点については死を統計的に捉えることと世界を確率的に捉えることとの類似性が指摘出来るだけでなく、実は両者の問題が同じ根を持つと理解することすらできる。つまり、死すべき私とは比類なきこの現実世界でもある。メイヤスーは世界に関する蓋然性が不可能であることから根源的な偶然性(ハイパーカオス)について論じるのだが、私たちの人生もそれを死の唯一性という観点から見れば、並ぶものなきものであり、それ故に実は一挙にその内容を変化させることを許すものである。つまり、人生に必然はない。それにも関わらず、同じ議論から、実は人生のあり方を偶然と見なすことは出来ない(いわゆる様相のつぶれ)。私たちにはこの1つしか与えられていないので、こうであったかもしれない私を考えることは本来出来ないのである(こうであったかもしれない私は端的に他人である)。未完了相的な議論を徹底化すると様相のつぶれが起きることはベルクソン自身の自由に関する洞察とも整合的である[10]



2.死と主体(名前の問題を中心に)

死は、反事実的な想定の意味への限界でもある。つまり、当人にとって最早可能性の分岐が起きなくなる時点が死である。このことに関して二つの解釈が有り得る。第1の解釈(①)はネーゲルが『コウモリ~』で展開したいわゆる剥奪説の見地であり、死は、善を追求する選択肢が最早取れなくなる、つまり、選び取れる可能性の剥奪であるとの見方である[11][12]。第2の解釈はネーゲルが『どこでもないところからの眺め』で示唆した見地であり、死は選択肢の剥奪ではなく、可能性という選択の基盤となるあり方そのものの剥奪であるとの見方である[13]。第1の解釈は例えば、「12:00にバイトがあるので、同時刻の読書会には出られなくなった」と類比的で、ある選択肢をとったせいで他の選択肢を取れなくなったというよくあることの一例として死を捉えている。対して、第2の解釈(②)はそうしたよくあることの一例ではない。更に極端に二つの解釈を対比するなら前者は物理的な主体の死であり、それ(具体的には脳機能の停止)という現実的成約によって選択肢が剥奪されたということであるが、後者は可能性そのものの剥奪、つまり、可能性を担う形而上学的主体としての死である[14]

この物理的主体と形而上学的主体の対比を誕生の場面に拡張することも出来る。クリプキ言うところの命名儀礼を、物体に名札を貼ることで形而上学的主体(可能性の分岐を通して同一である主体)へ変容させていると読むのである[15]。(ただし、これは誕生してすぐの物体の特徴を動かせない確定記述とするタイプの、いわば起源における確定記述の束説として議論を読むことであるため、クリプキは反対するだろう。)

この対比が明らかにするのは二点である。第一点として、いわゆるエピクロス・ルクレティウス説的に誕生と死を類比することは出来ないという指摘ができる。誕生の場合には、死の場合の解釈①(剥奪説)と対応する解釈が存在しない。剥奪説と対応する誕生への見解とは、誕生は選択肢を増やすものである、というものだが、誕生が選択肢の幅を広げた、とは普通考えないだろう。それ以前には選択肢(その個人にとっての可能性という捉え方)など無かったとする方が自然である。第二点として解釈②における「可能性そのものの剥奪」というその内実が分からないものを「命名儀礼」という同じく内実の分からないものと類比的に考えることが出来る点で、現実と可能性の関係、あるいは、物理的主体と形而上学的主体との関係について何かヒントを得られる可能性がある。また、このようにして誕生と死との非対称性を示すことが出来るなら、それは主体における時間の一方向性を擁護する論拠としても使えるのではないか。つまり、歴史のある時点で命名儀礼が起こることによって、そこから主体にとっての可能性が開けるのだから命名儀礼以前、以後という区別は決定的であるというように。ただし、一旦命名儀礼が成功すれば、そこから遡及的に「渡邉駿太は1700年に生まれることもありえた」、「渡邉駿太は2002年に死んだということもありえた」というような可能性を想定できるようになるかもしれないから、命名儀礼がある時点で行われることと様相の時間化(様相とは何かを起点にした時間の分岐を無時間的に記述したものに過ぎず、様相より時間の方が基底的である)とはひとまずは関係ないだろう。

名札を貼られる物体とは、可能性が開かれる前の主体、つまり、この現実世界におけるこの私[16]を現している。1末尾で未完了相から死を捉えるならばこの私の人生は比類なき(確率的に捉えられない)ものとなるため、様相のつぶれが生じると述べたが、その主体こそがここで言われている物体である。従って、上のようにして主体を、物体と形而上学的主体の二側面を分けることが出来るのであれば、私たちは皆、様相がつぶれて現実性しかないというあり方とあらゆる可能性を担うあり方という矛盾する二つを併せ持つおかしなあり方をしていることになる。この二つのあり方こそが、ネーゲルの二つの異なる解釈の基礎にあるのではないか[17]。また、私たちの人生における通時的変化を様相から見る場合、通時的同一性を保証しているのは名前である。そのため、1における第一の点に関して、人生の内容的変化を支える形式とは名前であることになる。すると、死を形式における断絶ではなく、内容における断絶と見る見解では、形式とは名前であることになる。


■参考文献

・青山拓央「指示の因果説と起源の本質説」(時間学研究第4巻pp.49-56、2011)

・入不二基義『時間と絶対と相対と』(勁草書房、2007)

・V.ジャンケレヴィッチ『死』(仲澤紀夫訳、1978)

・T.ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』(永井均訳、1989)

・T.ネーゲル『どこでもないところからの眺め』(中村昇他訳、春秋社、2009)

・H.ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』(合田正人、平井靖史訳、ちくま学芸文庫、2002)

・Q.メイヤスー『亡霊のジレンマ』(岡嶋隆佑等訳、青土社、2018)



[1] 個人にとっての様相と可能世界意味論等における様相とは関係があるのだろうか?

[2] V.ジャンケレヴィッチ(1978)

[3] 実際に起こるまでなんなのか分からないが、一人称の死の特徴であり、回顧的に位置づけられるのが三人称の死の特徴である。二人称の死は主として経験的観察の記述によって特徴づけられており、私の関心とずれるのみならず、ベルクソンによる完了相、未完了相の区別からジャンケレヴィッチの議論を整理する際に浮いてしまうので本稿では触れない。

[4] 杉山直樹『ベルクソン 聴診する経験論』(創文社、2006)(杉山先生のホームページで無料公開されている。)pp.78-80参照。

[5] 死について考えるに際し、ジャンケレヴィッチの議論を参照したものとしては斎藤慶典『死の話をしよう とりわけ、ジュニアとシニアのための哲学入門』(PHP研究所、2015)(の特に前半)、ベルクソンの議論を参照したものとしてはジャンケレヴィッチの諸著作の他に中島義道『死の練習』(ワニブックス、2019)がある。そのため、ベルクソン時間論から死を考えるのは典型的なアプローチの1つである。

[6] Q.メイヤスー(2018)所収の「潜勢力と潜在性」(黒木萬代訳)を参照。

[7] あまり論理の規範性の話を知らないので、何か補足があればお願いします!

[8] 本稿の筋とは関係がないが、この説明には大いに疑問が残る。

[9] マクタガート時間論まわりの話におけるA系列論者(E.J.ロウなど)を念頭に置いている。入不二基義(2007)の第一章「非時間的な時間――第三の〈今〉」を参考にした。入不二「時間の推移と記述の固定」(2004、科学哲学37-2)が元で、そちらはネットでも読める。

[10] H.ベルクソン(2002)より。「これらの先行条件を同化する仕方には、一方は動的、他方は静的な二通りの仕方があるからだ。前者の場合には、感知できないほど微妙な移行によって、問題の人物と合致するに至り、諸状態の同じ系列を経て、かくして行為が遂行されるまさにその瞬間に立ち戻るのであって、だから、行為を予見することはもはや問題外だろう。」(pp.209-210) で終わる議論の箇所。

[11] T.ネーゲル(1989)第一章「死」を参照。「死ぬことは悪いことである、という見解の意味するところを理解するためには、生は善であり死はその善の剥奪あるいは喪失である、ということを根拠にせざるをえない。死が悪であるのは、死のもつ積極的な特質によってではなく、死が奪い去るものの望ましさによってなのである。」(p.6)

[12] ごく概略的ではあるが、「死は悪いこと(害)なのか?」という問題について、エピクロス・ルクレティウス説VS剥奪説という構図がある。前者は、死んだ時、主体はもういないので死は誰にとっても害ではなく、誰にとっても害でないものは害とは言えないので死は害ではないとする。(功利主義はこの路線をとって、殺人に対する刑罰を私たちの心理的な安全性の確保の観点から正当化するらしい。)後者は、死は善を選び取る可能性の剥奪であるため、害をもたらすとする。

[13] T.ネーゲル(2009)第11章「誕生と死、生の意味」。「たしかに、行為したり経験したりするさまざまな可能性は、自分が死ねば実現されないままになる。しかしもっと根本的なのは、現実だけでなく可能性の主体でもある自分が存在しなくなるとき、それらが可能性ですらなくなるという事実だ。〔中略〕〔意識がないことは〕死とちがい〈いま〉と〈ここ〉を破壊しない。」(pp.369-370)

[14] 形而上学的主体とはここでは可能性を担う、可能性の分岐の起点となる主体のことである。普通の意味では「名前」であろう。

[15] 青山拓央(2011)のpp.49-52あたりの議論を参考にした。

[16] 「この」はここでは「私」という語の指標詞としてのあり方を強調しているだけなので、各人にとっての各人と理解してよい。

[17] 本稿で論じたような死、時間、様相のあり方はあくまで意味の上から捉えられたものである。(その点を印象づけるため人格の同一性や時間に関する実体論的(?)形而上学に関しては全く触れなかった。)私にとっては本稿のような議論こそが「人生の意味」、あるいはmeaning in lifeの哲学的探究であるように思われるのだが、本稿の議論が英米圏で近年蓄積されている人生の意味の哲学と関係しているのか、関係しているとすればどのようにか、という点に関しては全く分からない…関係づけることが出来そうか、別の議論としてやるべきかも卒論の構成に関わる点なので、何か手がかりをいただけると大変ありがたい。

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