和田合戦_02 千葉純胤の時空移動
和田義盛が上総介となる願い。
これが成せば和田家の威光を上げ、本家である三浦一族の総力を増すこととなり、北条家に競り合えるとの算段が和田義盛にはあった。
上総介への嘆願書は和田義盛から源実朝へ渡る。
和田義盛としては並々ならぬ思いでの嘆願であった。
嘆願書には「一生の余執」であることを添え、生涯のうちで心残りなのは上総介への補任ただ一つであると力説した。
和田義盛自身は先の治承・寿永の乱で活躍してからもう数十年も月日が経ち、もう齢六十を超えていた。
上総介に就ければ、ようやく嫡子の和田常盛へ家督もそつなく継承できるという想いもあった。
実朝は父である頼朝と同い年の和田義盛を信頼していた故か粘り強く朝廷へ協議を続けた。
しかし上総介には藤原秀康が補任されることとなる。
藤原秀康は藤原四家のひとつ藤原北家で、かつ後鳥羽上皇の近臣であり北面の武士でもあった。
藤原秀康の父は和田宗実といい和田義盛の弟であったが、藤原四家のひとつ藤原北家へ養子となり、藤原秀康はそこで生まれ育った。
和田義盛としては藤原秀康が自身の甥とはいえ、藤原北家で院近臣という立場を考えると断念するしかなかった。
和田義盛は上総介への嘆願を取り下げた。