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河瀨直美さんの東大入学式の祝辞に寄せて

2022年4月12日に行われた東京大学入学式で、映画監督の河瀨直美さんが送った祝辞が話題になっている。その大部分は、批判的な意見だ。

先だって、「ロシアもウクライナも両方悪い」という安易な両論併記に対する厳しい批判があった。

ここで紹介されている慶應義塾大学の細谷雄一教授による批判/主張には、僕は全面的に賛同する。
侵略戦争は絶対に許されるべきではなく、そのこと自体に疑問を挟む余地はない。

しかし翻って、東京大学入学式での河瀨直美さんの祝辞に対する批判の多くは、あまり的を得ていないのでは、と感じている。
(最初に断っておくと、僕はこの河瀨直美さんという方を今回初めて知った。どんな映画を撮っているのか・どんな思想を持っているのか・今までどんな発言をしてきたのかについて、全く背景知識がない状態で、今回の祝辞の文章だけをみて話している)

批判が間違っているというわけではなく、厳密に言うと河瀨直美さんの伝えたかったことを正しく解釈できていない状態で批判しているのではないか、と考えている。もちろん僕は河瀨直美さんではないので、本当に彼女が伝えたかったことが何なのかを知ることはできない。しかし今巻き起こっている批判の多くは、脊髄反射的な、思考の短い議論であるように感じる(一方で、このような批判が多くなってしまうのは、ひとえに今回の出来事があまりに衝撃的で許し難いものである、ということの裏返しなのかもしれない)。

しかし、この批判の先にある河瀨直美さんの真意を想像しようとすることは、これからの世界にとって非常に大切なことだと感じている。

このnoteで政治的な話題について語るのは初めてであり、もしかしたら炎上するかも知れないという懸念を抱きつつ、できる限り正確に意図が伝わるように、丁寧に書いていきたい。少なくとも僕の身の回りの人が、より幅の広い視点で世界を見れるようになることの一助になってくれれば嬉しい。

祝辞の中で問題になっているのは、この部分だ。

例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。

https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message2022_03.html

"全文を参照せずに、一部分だけを切り抜いて批評すること" が望ましくないことは理解している。それでも、全文を何度も読んだ上で、今この祝辞に対して巻き起こっている批判の多くは、純粋に「この部分」への解釈が誤っている(=彼女の真意が伝わらない形になっている)ことにより生まれている可能性があると感じており、このnoteでは全文を参照することなく、この部分に対してのみ論じる。

祝辞のこの部分に対する批判は主に下記の通りだと認識している。

・ロシアを非難することが「一方的な側からの意見である」という主張は到底受け入れられない
・侵略戦争を行っているロシアを悪と断じない、などということがあってはならない
・ロシアもウクライナも悪い、という安易な両論併記は許されない
・日本が他国を侵略する可能性を持ち出すのは、論点のすり替えである

僕は、これらの批判は非常に正しいと思う。だがこれらの批判は、この祝辞の意図した内容には適していないように思う。そもそも、河瀨直美さんはそのようなことを伝えたかったのではないのではないか?と思う。

先に言っておくと、

一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?

この部分については、表現を大きく誤ったと思う。この表現は「ロシアを悪と断ずることは、一方的な側からの意見によるものだ」と主張していると解釈されても仕方がない。そう解釈するほうが自然だ。

しかし、このミスを差し引いてなお、この祝辞には重要な示唆が含まれていると感じた。

先に弁明しておくと、これは「彼女はこう言っているはずだ(だから彼女は悪くない)」といった類の主張では一切なく、「もしかしたら彼女はこういう意図で言っているかもしれず、そのことには一考の価値があるのではないか」という主張だ。

彼女が伝えたいのは、僕なりの解釈で行間を補ってみるならば、このようなことなのだと思う。

・侵略戦争を行っているロシアが悪であることは明白である。決して許されることではない。
・しかし、「ロシアは悪である」と断じて非難・攻撃し、結果めでたくその「悪」を滅ぼしたとして、それですべての問題が解決するわけではない。
・今回の問題だけではなく、人類は有史以来、決して許されてはならない侵略や虐殺、戦争を繰り返し行ってきた。そのたびにそれを「悪」と断じ、戦い、うち砕いてきた。
・それでも「悪」は繰り返し生まれている。残念ながら、これからも続くであろう。
・私たちは「なぜその悪は生まれるのか」というところに正面から向き合わねばならないのだ。

彼女の「ロシアという国を悪者にすることは簡単である」という言葉は、批判されているような「ロシアという国を安易に悪者にしてはならない」などという、軽薄な意味ではないのではないかと思う。「ロシアが悪である」などというのは自明であり、断じて許されない。それでも、「東大生諸君には、是非その先に思いを馳せて欲しいのだ」という願いなんだと思う。

生まれながらに邪悪な人々がいて、それを滅ぼせば世界は平和になる。

もし世界がそうであればなんと楽なことだろう。

でも、実際にはそうではない(少なくとも僕はそう考える)。

侵略戦争を行っているプーチンは悪だ。虐殺を行ったロシア兵は悪だ。それは間違いない。断じて許してはならないし、被害にあっている人々は、必ず救いたい。

でも、彼らは生まれた瞬間から悪だったのか?悪の遺伝子みたいなものがあるのか?ある土地に生まれた人間は一定確率で悪になるのか?

おそらくそんな事はない。

彼らはみな、ごく善良な1人の人間として生まれ、それぞれが幸せに生きたいと願い、様々な環境や経験を通じて、そして「悪」となった。

そのことから目をそらしてはならないと思う。
同時にこれは、「自分自身がもしかしたらそうなっていたかも知れない」という想像力を持つことを要求してくる。「私や我が国が、悪になどなるはずがない」という固定観念を捨てることから始めなければならない。なぜならば、須く全ての「悪」は、「自分は悪になどなるはずがない」と信じていた/いるのだろうから。

これが彼女の言う、

そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。

ということなのだと思う。

以前も書いたように、全ての「地獄のような状況」は、善良なる意思の上に作り上げられる。それが少しづつゆがみ、増幅され、気づいたときには地獄にまで通じている。

だから、簡単ではないのだ。
悪を悪だと断じ一つずつ滅していくことで、やがて全ての問題が解決するのならばどんなに楽だろうか。

この現実から目を背けず、精一杯の想像力をもって生きていきたいと思う。

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