自分は毒親では?と不安に思う方へ、「毒親」と「そうでない親」の境界線と、それを越えないための話。
自分が毒親か、そうでないか。
この行為は毒か、そうでないか。
毒親育ちを自覚してから、私は毎日この疑問に直面しつつ子育てをしている。
「歯磨きをしなさい!」と、面倒くさがる息子を毎日叱り飛ばすのは、虫歯を防ぐために必要な事だ。
だが、息子に虫歯が出来たとして、他人に迷惑がかかったり、社会に適合できなくなるわけではない。息子が痛いだけである。
本当に「虫歯が一本もない」ことが、息子にとって絶対必要なのか?
息子が歯磨きをサボり、その結果息子の歯が虫歯だらけになるとして、それは息子の自由意志での選択として、許容すべきことだったりしないか?
息子の歯が虫歯だらけになるのは良くない、避けるべきだ、と強く信じてしまうのは、私自身が「ちゃんとしてない親」だと他人に思われるのが嫌だから、だったりしないか?
・・・という風に考え始めてしまうと、もう何が正解か分からなくなってくるので、「普通は」という概念に頼ることになる。
つまり、「『歯を磨け』としつけられる子供は世の中で圧倒的多数を占めるはず。ならば歯磨きを強要されるからといって、別に取り立てて不幸な子供とは言えない」と割り切るのだ。これで日常生活の7割方は何とか出来る。
だが、問題はここから先だ。
「宿題をやる時にはTVを消しなさい」「タブレットを見るのは夜20時まで」「外出時はゲームは置いていきなさい」といった、家庭ごとにアリナシが変わるレベルのことは、どう割り切れば良いか。
「父の日だから、パパに何かプレゼントを買おうね」は価値観の押し付け、「今日は(子供が行きたがっている)遊園地でなく、公園に行く」のは親の都合の押し付け、「乱暴な言葉を使うんじゃありません」は理想の押し付けではないのか。
・・・といちいち考えていると、やがて何一つ身動きが取れなくなる。「毒親」にならないために、「何もしない・何も言わない」という選択肢しかなくなると、それはそれでネグレクト・無関心親になってしまい、別の種類の「毒」となる。
親の目線で、「毒親かどうか」を考えていると、そういう事態に陥りやすい。
そこで私は、毒親に育てられた人間として、「私の親の、どこがどう毒だったか」「どうしてくれれば、毒でなかったか」を考えてみた。答えは意外と早く出た。
毒親とは、子供にパワハラ・モラハラをし続ける親のことであり、
ある一人の人間が「毒」なのではなく、親と子の関係性が「毒」なのである。
これが、私の考える「毒」および「毒親」の定義だ。
そして、自分が毒親かどうか?と悩んでいる方がいたら、「自分は子供にパワハラ・モラハラをしているか?」と置き換えて考えてみて欲しい。
職場の上司が、部下に理想を語り、共有しようとするのがハラスメントだろうか。
目標達成のために檄を飛ばし、あるいは部下のモチベーションを上げようと誘導するのがハラスメントだろうか。ミスした部下を叱責するのは?
そういったこと「そのもの」がハラスメントではないはずだ。
例えばある日、上司が部下を叱ったとする。同じミスを繰り返していたので、強めに注意した。上司自身の考えでは、「やや前時代的かもしれないが、自分が若い頃は皆、こういう感じで叱られていた」レベルの叱り方だった。
ここで、叱られた部下が「うつ気味だったところに、強すぎる叱責を受けてPTSDを発症し、業務が出来なくなった」と人事部に訴えた場合、この上司の叱り方は、間違いなくパワハラだった、ということになる。
一方で、叱られた部下が2時間後にはケロッとしており、「どうですか今日これから一杯!」と、叱った当人の上司まで誘って、パーッと飲みに行けるようなキャラなら、この上司はパワハラなど全くしていないし、むしろもっと強く𠮟っても良かったのでは?という話になる。
ある一つの行為がハラスメントになるかどうかは、受け手の側がどのぐらいダメージを受けたか、に左右されるのである。
そして、上司としてパワハラをしないようにするためには、部下を叱る際に、「俺は部下だった頃、このぐらい普通だったから」「部下というのはこうして叱られるものだ」で叱り方を決めるのではなく、「この部下にはどういう叱り方が適切か」「この部下を傷つけすぎていないか」ということに気をつけながら叱る必要がある。
部下に対して「俺の部下」という肩書でなく、「この部下(=○○さん)」という「個人」の意識をきちんと持てば、ここに気をつけることが出来るはずだ。
親子関係に話を戻そう。
子供に働きかけるとき、「私の子」という意識を強く持っていると、ハラスメント=毒を子供に与える危険性が高まる、と私は思う。
私の子なのだから、このぐらい叱るのは必要なことだ。私の子なのだから、このぐらいは出来て当然。私の子なのだから、このぐらい分かってくれるはず。
これらは”毒親になりやすい”親の典型的な思考だが、自分の子を「自分の子供」という肩書でしか認識出来ないと、こういう思考に陥りやすい。
子供に毒を与えないためには、その子を「自分の子供」という肩書でなく、「この子(=○○ちゃん、○○くん)」という個人である、という認識を持つ必要がある。
「この子」に必要な叱り方は、自分がされてきた叱り方や、自分が上の子にしてきた叱り方とは違うかもしれない。「この子」にとっては、「そのぐらい出来て当然」ではないかもしれない。上の子は平気だったけれど、「この子」はこういう言い方をすると傷ついてしまうかもしれない――
「この子」という意識があれば、親自身や他の子供とは別個の人格であることを認識しやすい。「親の子供」という役割を離れた、その子自身を見ることが出来る。
毒親というのは、子供の「個」を認識しないか、非常に軽視する。「自分の子供」なのだから、個人である前に、親にとって都合のいい存在であるべきだ――意識的にせよ無意識的にせよ、そう考えているのが「毒親」だ。
逆に言えば、子供の「個」を認識し、「自分の子供」としてよりも「この子」本人の自我を尊重できるならば、その人は「毒親」にならずに済むと言えるだろう。
毒親と、そうでない親の境界線は非常にあいまいで、紙一重だ。
だが、子供を「自分の子」という肩書ではなく、「この子」として尊重することを意識すれば、毒親になってしまう危険を格段に減らせる。何らかのダメージを与えてしまった場合にも気が付くことができるし、気が付ければ、フォローを入れることも可能なはずだ。
自分が毒親か、そうでないか。そんな風に迷いながらお子さんに接するときは、「私の子」という肩書を離れた、「この子」という個人を意識することを、是非試してみて欲しい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?