「センス問われますね…」なんて口にする前に、省略した主語を思い返すと肩の荷が降りる。
いけばな、なんてコンテンツを扱っていると日頃から比較的耳にする言葉です。
「センス問われますね」
いけばなについてひとしきり説明したのち、「それでは自由にいけてください」とお伝えした後に受講者の口をついて出がちな言葉です。その都度、僕は心の中で「問うてません」とつぶやくのがお決まりですが、耳に入ってくる「問うてません」という響きであぁ、今回もうっかり口にしちゃったなと気づくのです。
そうなんです。先生たる僕は別に問うてないんです、受講者のセンスを。体験レッスンのテイを装って貴重な戦力たりうるアシスタントの採用を目論んでいるわけではありません。そしてまた、たまたま居合わせた他の生徒さんたちもあなたのセンスを十中八九問うてないと思います。安心してください。
ええ、そうでしょう、ただの照れ隠し程度に口をついて出る言葉なんだと思います。センスよくなりたい、なんて口にするのは大概憚られるに違いありませんし、仕上がりに対するある種の保険みたいなものかもしれない。
自ら「センス問われますね」で始めて、お稽古を経て「やっぱセンスないですよね」と締める。謹啓 / 謹白 的な頭語と結語の間柄。
この"センス問われますね問題"に対して、最近は「問うてません」と答えるよりも「誰が問うてるんですか?」と主語を促す返答2.0に切り替えました。
そもそも体験レッスンを受講しにいらしてくださる生徒さんは、日頃自分が飾った花にどこか物足りなさを感じているからこそ、おでかけくださっているはずです。すでに何かが足りないということは自覚済みで、そのぼんやりと欠けた何かを#センスとタグづけて抱えていらっしゃる。問われてご本人は自覚するのです。
あぁ、そのセンス、問うているのは他ならぬわたしだ。
「なーんだ、わたしか」とお気楽に考えられる人は元より口にしないように思われます。だから口にした人に「いや、問われていません」なんて言おうものなら、心の中を見透かされたと身構えてしまうかもしれません、落ち込むかもしれません。なにより共感の時代にあってはあまりにも突き放した響きだなと省みました。
これでは脳科学の先生に習い事の上達の際に必要なことは何でしょうかと尋ねたおりに得られた回答、すなわち継続させることを損ねてしまう恐れがある。結局、楽しいこと、気持ちのよいこと、面白いこと、が次への一歩となるわけです。千里の道も一歩から。そうして踏み出した一歩、からの「あんよが上手、あんよが上手」とお囃子たてる親の如くに一歩、また一歩と手を引き歩みを前へと進ませることが先生の役割、となりましょう。
人は最初の一歩を踏み出すことで安定していた身体の重心、軸が前方向にズレます。さらに右足、左足と交互に歩みを進めるためには、頭上から見た時に反時計回りに時計回りにと、およそ2、3時間程度分ずつ腰を起点として軸の水平方向に針を交互に戻したり進めたりと3軸で移動させています。頭で考えなくても直感的にできる今となっては、言語化するにも面倒をともなうかもしれません。
しかしそもそも歩き始めたときにはおそらくそんなことは頭で考えてもいなかったでしょうし、考えるために必要な語彙もなかったはず。となるとやっぱり体感を重ねておぼろげな感覚の自らの中央値を掴むのが定石なんだと知れます。軸の移動を言語でなく動作で身につける。理論は後付け。
哀しいかな大人になると理論から入りがちで、身体で感じづらいのかもしれません。この解決方法は千本ノックよろしくひたすらいける、いけるいける、ということになるのかな。ブラインドタッチが如く、とにかく身体に覚えさせる。aはどこかな、あれ、wの隣は何だっけ、なんて考えるより先に指先が動くぐらいに。
しかもこの理論には社会の目、みたいな枷が付けられていることも大概です。わたしの経験不足が見透かされてしまうようで恥ずかしい。なんてどこかで思っているのも同様、理論から入ったがゆえの悩み、淀みと知れます。実践主義、体験主義的に捉えれば経験不足はただの状態に過ぎず、恥ずべき対象にのぼらない。
「センス問われますね」というフレーズに滲む一抹の不安感。ただそこには本来の意味での感性の選択ではなく、一般的に使われる感性をかたちづくる経験値がごっちゃになったがゆえの悩みが垣間みえるのです。誰しもが持っているんです、自分なりのセンス(選択)を。その選択を最大限とするために、今日このレッスンからセンス(経験、蓄積)を重ねていきましょう。
経験の蓄積は僕の教室でぜひ。オンラインレッスンも行っています(PR)。
いや、まてよ…、もしかしたら同じ受講生としてはセンスのない人と一緒の方が安心だ、とか思ったりするのかな? センスのある人と一緒だと自分が見劣りするんじゃないか、とか思ったりするのかな? どうですか。
でもいけばなはわたくしごとの最たるもの、他者と比べるようなものではないのだから、そんなことを思っても慰みにもならないんです。相対評価に長らく晒されていると思考の垢のようにこびりついている発想なのかもしれない。気づくと他者と自分を比べてしまう。そうして殊更に
わたしはわたし。自分らしく生きる。世界にひとつだけの花。
だなんて類のプラカードを掲げてしまう。掲げ続けると肩がこりますよ。プラカードを下ろしませんか。大丈夫。どうあってもあなたはあなたのままそこにいる。植物が根を貼った土地で淡々と次の命を紡ぐべく過ごすが如くに。(お終い)
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