見出し画像

3.11に思う、境遇の違いをどう乗り越えるのか

”ほんとう”と向き合わざるを得なくなった人たちがいます。

 3.11を特集するテレビ番組では、26歳の同い年の子が、10年前の震災で母を亡くし、両親を亡くし、その中で病魔を乗り越えたり、子供たちに教師として言葉を紡ぐ姿が映りました。

 「共に涙することはできる」と言ったアナウンサーの言葉にも至極共感するし、実際に涙する自分もいます。

 でも今日は、悲惨とは遠くにいる自分はどうあるべきなのか、どうやってその渦中にいる人に同苦することができるのか?それってどういうことなのか?こうだと少しでも納得する答えがほしいと思い、ここにまとめます。

 私の身近な話に落とし込むと、高校生の時にお母さんが病気で倒れて、普通の高校生活を送ることができなくなり、苦労を強いられた友人がいました。

 社会人になってからも良く会っていたその子に、ある時

「自分のことを真に共有するのは家族である姉か、境遇が同じ人だ」

ということを言われました。

 そのことが自分の中で案外にも大きく、境遇が違う&特段の苦労もしていない私は同苦することができないのか…?ということをしばしば考えるようになりました。

 そもそも体験の大小なんて比べるものではないような気がします。その人にはその人の苦しみがあるし、それは預かり知れない過去世からの連環の中で起こっているもので、同じ苦しみでもそれをどう捉えるのかは、人それぞれの生命状態や、その人が持っている哲学にもよるのだと私は生老病死を定義しています。

 ただ大きな悲惨を体験する、それまでの普通の生活が突然に踏みにじられる、ということは、「いかに生きるべきか」という命題に不可抗力によって立ち向かわざるを得なくなるということに違いありません。ひとり、何かによって折り合いをつけ現実を歩んでいく、そのために何度も暗い苦しい波に心を飲まれるような思いをしなくてはいけないことなんだと思います。

 一体何のために生きていくのか、何なんだろう、この命とは、という果てしない疑問。そういう類のものは、私の中では"ほんとう"と向き合うことだと位置づけられてます。銀河鉄道の夜で、最後には友人の死にも巡り合うジョバンニが、この世のほんとうを求めて銀河のもと切符を手にするのも、しあわせとは何かか、ほんとうの答えはあるのかな、という純朴な問いからだと思い起こすからです。

 ここで私の出す一つの結論は、その「いかに生きるか」という命題に、日ごろから誠実に向き合うということが、この安穏たる私の人生において、境遇を隔する人と共有できる限られた世界線なのではないか、ということでした。

 また、”思いを馳せる” ”祈る” ということの人間的なことを思い返しています。どうかあの人が幸せで暮らせますように と手を合わせる行為は、人間に与えられた特権だとあらためて思っています。

 ここでまた、その祈りの先にさらに、人の心を救うものとは何なのか、と考えてしまいます。

 あ、美しいなって その心に涙を与えることができたら、それはこの上ない画家の本望とするところなのではないかなとか思います。

 その一滴のために、何万時間もかけて魂を留めようとすることだったり、絵は、いつも何かと何かの間にあることだったり、を 考えてしまいます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?