見出し画像

自己紹介:はじめてのnote


世の中には、人の数だけ哲学があるはずだ

はじめまして、ワタオシ哲学です☺︎

筆者はこんなひと

  • 現職:30代、都内のIT企業で働いています

  • 仕事経験:テレビ局グループのデザイン会社(グラフィック)、イベント・LIVEのアーティストケータリング (楽屋作り、食事作り)、カスタマーサクセス、アパレル販売員、SEOライター

  • 日課:毎朝のウォーキングとスクワット

  • 好きなこと:コーヒーを淹れてぼーっと飲むこと、月を眺めること、料理

  • 好きな場所:川辺、原っぱ、ロンドン

  • 得意なこと:モノづくり(動画、アクセサリー、キャンドルなど)

  • ついやってしまうこと:内観して出来事を深掘りすること

  • お気に入り:カズンサイズの「ほぼ日手帳」を日記としてつけること


2025年、新しいアカウントでnoteをリスタートすることにしました。また新しい出会いが待っている、そう思うとワクワクします☺︎


この記事では、【ワタオシ哲学】と名付けたエピソードを自己紹介のようにつらつらと書き記します。

あえて淡々とした書き残し方をしていますが、気楽に読んでもらえたら嬉しいです☺︎


楽しいときもしんどいときも、目の前の出来事を観察すると面白い

哲学とは、生活のなかで疑問に感じたことや身の周りにある問題について自分なりの“問い”を立てながらこだわって考えをつきつめていく学問のこと。 特に結論と同じくらい考え方の過程を大事にしていて、たとえ結論が同じでもそれぞれの人がどう考えたかに着目するのが哲学だ。

スタディサプリ

「全ての経験の先に、自分にしか導き出せない哲学があるのかも」

〜今そう思えるのは、「自分以外の全ての人にその人らしい哲学があるはずなんだ」と想像できるようになったから〜

(人それぞれ「哲学をする」と言う方がほんとは厳密なのかもしれないけど、ここでは個々の視点や思考の過程をあえて「哲学」と表現することにする。)


数年間、自己啓発とか潜在意識の書き換え的なことに励む中で、たくさんの人が発信するオリジナルメソッドに触れてきた。先人の知恵に助けられたり、書籍に学びを得たり、SNSで発信してくれる投稿者さんの体験談に影響されたり、人の数だけ人生のドラマがあることを強く感じていた。

みんな違って、みんなよすぎ!



自分で経験してきた出来事や感情、学びをせっかくだから発信していきたいなと考えたとき、コンテンツには名前が必要になる。

私はこれまで、個人のwebサイトを立ち上げたり、オリジナルアクセサリーを作って販売したり、stand fm やYouTubeをやっていたりする。ここは、いろんな活動を通して得た(そして今後も得るであろう)オリジナルメソッドの発信基地のような位置付けにしたい


分かりやすく名前をつけてみるかと思い、浮かんだ言葉が「哲学」。

  • ワタシ自身の経験から導き出した哲学

  • 読んでくれるあなたにもあるあなただけの哲学

  • 自分を応援するためのヒントになる哲学

こんな要素を込めたかった。

色々と思考を巡らせているなかでふと頭の中によぎったのが、「推し」というキーワードだった。


ワタシを応援する哲学のキーワード:「推し」


メディアで当たり前のように「推し」・「推し活」という言葉が浸透し、聞き馴染みのある言葉に育っている。私はずっと、応援する対象に「推し」って言葉を使うのがしっくりこなかった。

「好き」、ただただ好き。
「好きなひと」、としか言えなくて。

一般的に「推し」とは、【応援する対象】を指す。

そして「推し活」は、【推しを応援する活動全般】と理解ができる。

この活動には、「周りに布教したい」とか「対象を活躍させたい、押し上げたい」のような、【能動的に動く・周りに共有する】といった要素を強く持った行動が含まれる。(ライブに行く/販売物を買う/SNSで周囲に広める/応援広告を出すetc…)

自分を癒して支えてくれる「推し」に、アクティブに働きかけるような行動を「推し活」と言うことが多い印象だ。


何かを応援するお話でよく使う言葉に「ファン」があるけれど、「ファン」というのは、「ワタシ自身」を指しているのだ。使い方を思い浮かべると分かりやすいが、「〜のファンです」のように使うわけだ。

つまり、「推し」と「ファン」は、「応援する対象」なのか「ワタシ自身」なのか、この明確な違いがある。



冒頭に戻ると、私はずっと応援している人のことを指して「推し」という言葉を使うことがしっくりこなかった。「推しって誰?」とか「推し活してる?」的な質問を受けるたび、私は違和感を感じてきた。


それはなぜか。

私にとって、対象を見てるときに大事な軸は、「その人が好き」というシンプルな感情そのものだったからだ。

もちろん、応援することには変わりないし、周りに勧めたくないです・グッズ買いませんとか、そういう話ではない。(なんならコレクター気質でグッズめちゃくちゃ買うし、ライブは遠征しまくりだし。)


あくまでも、その応援する気持ちを突き動かしているのは「好き」って感情でしかないなと。

「好き」というシンプルな感情を内側でただ味わいたいだけ。

周りと比べたり、数で張り合ったりするような行動を伴う必要ないな〜と思うからこそ、「推し・推し活」という言葉で好きな世界を括りたくなかったのだ。


「推し活」って、ワタシを推してもいいんじゃない?


そんな、私なりの「推し・推し活」の概念に辿り着いたとき、ふと思った。

「じゃあ、ワタシにとっての推し活って、自分を応援することでもいいんじゃない?」って。要は、「セルフラブ」だ。


推すべき人は、他でもなく自分自身なんじゃない?って。
何も、承認欲求を満たそうだとか、自己アピールをガンガンしていこう!ってことではない。

エネルギッシュに応援する情熱こそ、自分自身に注いでもいいんじゃない?って。


人生を生きていく上で、主人公はワタシ自身。そう思うと、自分のことを自分が積極的に応援してあげる、そんな「推し活」に励んでもいいんじゃないだろうか。


一般的に、「推し・推し活」の対象は自分以外を指すことが圧倒的に多いと思う。私は、その対象をどう見つめているかといえば、『ただひたすら内側で愛でている』だけだなぁと気がついた。好きの感情に「推す」という言葉の意味そのものの感覚は、別に必要がなかったのだ。

言葉は生き物だし、「推す」って言葉が"対象の応援活動"という意味を持って進化したとも言える。

けど、いま軸にしているのは「推す」という言葉の意味そのものであり、だからこそ、好きな人を指して「推し」と呼ぶことに違和感を覚えたよってお話なのだ。

「推し・推し活」の対象を、「ワタシ」にしてみたら、なんだかしっくりきたよって、そんなお話。



自分を応援するためのラフな思想が、「ワタオシ哲学」

私は、ここ数年ずっと「潜在意識を書き換えよう」だとか、THE・自己啓発について向き合いまくってきた。

その結果、

めーっちゃ疲れた!


いわゆるスピリチュアルの世界にも触れてきたし、自己理解に熱中してみたり、「こうすればあなたの人生ラクになれるよ〜」的な著書にもたくさん触れた。

いろんなメソッドを試したし、気分が上向く日もあれば全然思い通りに行かず涙がぼろぼろ出る日もあった。

その分たくさんの気づきがあったし、今こうして新しいアカウントを作成して1からnoteを始めている。


私自身がかつて自分のことが好きになれず悩んでいたように、もしかしたら、自分を愛せずにもがき苦しんでいる人が読んでくれているかもしれない。

私自身がかつて自分に自身がなくて毎日泣いていたように、もしかしたら、自分を慰められず明日が来るのさえ怖い人が読んでくれているかもしれない。



自分自身を応援するヒントになる、そんな哲学でありたい

ワタシを推す「ワタオシ哲学」の爆誕だ。自分の背中をさすって、抱きしめて、あなたという"ワタシ"を応援していきましょう。

気楽に!

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集