探究疲れ・ICT疲れ
「先日こんな記事を見た。」って書きたかったけど、記事がどっかに行ってしまった。なんか、3年履修だけど、3年目は時間割の中になくて土曜登校で4時間探究とかでなんか活動してまとめるそうな。そしてやることやテーマが選べないらしく「選ばせろ」と言うこと、そもそも内発的動機があってだろ、なのになぜ選べぬ?動画制作なんぞよりその生徒さんがやりたいことがあるらしく、そっちをさせろという悲痛な叫びだった気がする。
自分がこの夏以降、連載って決めてるわけでもないのに学校のnoteの記事連発してたのはまさしく「自分が必要だと思うから」でありいわゆる「内発的動機」があったからで、昨年度まで作ってた「活動報告書」が去年止まってしまったのは諸事情があるが、内発的動機が「プッツン」したからもある。46歳のおっさんがそんなことで仕事を止めるのは問題なのだが、それぐらい大人になっても「内発的動機づけ」は大事である。
探究において内発的動機づけは重要である。というか、それ無くして大学での学びというのは成立しないと考えている。特に「研究」なんてものは内発的動機づけから始まるものであって、儲かるからやるもんじゃない。これを綺麗事という人もいるが、内発的動機もないのに長時間労働強いられるから過労死するわけ。「やりたいこと」とことんやって死ぬならしゃぁ、ない。それが昭和だったと思う。ちょっと自分のことも書いてみよか。
うちの父親や母親は自営業者で(言うたらアントレプレナーやったなあ、実父。)会社倒産して、再起をかけて軽トラ屋のフランチャイズ権買って、軽トラで夕方荷物を受け取って深夜高速道路も使わずに岐阜から北は東北、南は九州、関西震災後も関西に荷物届けに行ったり。でも自分を食わすこと、再起をかける執念やったんやともう。夜通し走って、朝納品して帰ってくる。夜帰ってくることもあれば、昼過ぎに帰ってきて先に寝てることもあったかもしれんけどあんまり記憶にない。そんな生活、普通サラリーマンの自分からすると「驚異的」なんやけど、そう言う仕事されてる保護者の方もおられるんやと思う。定時制勤めてた時は夜勤3交代の親さんもいたしね。でも、家族のためなら頑張れるんよね、多分。僕も、家族の危機になったら(って、この夏は実の娘と母親が相次いで入院したから危機は危機だったけど)それなりに頑張れるものです、人間。でも、命はってってのと「8時間労働」といういわゆる真っ当な働き方とは相容れないので「本当に自分が好きなこととか使命感じること」にしか命張るような仕事はできないかもしれないけどそういうものに出会えたらそれは幸せやと思う。
で、本来は高校における探究はそう言うものとの出会いを促進すべきものなんだけども、そういう方向に向かってない内部もあるんだと思う。
最初は、私憤とか執念とか負のエネルギーでもいいと思う。そりゃ大人的には高校生がワクワク・ゾクゾクって内発動機に誘われて天界に登っていくとか美しいストーリーだけど、それが正解とは限らないと思うし最初は負で入って昇華するパターンだってあるだろう。それもちょっと美しすぎるけども。いずれにしても「これだ」と自分で腹決めて、打ち込んで、止めてもやめられへん自分の「ツボ」がわかることが大事なんだと思う。昔の人はやる気スイッチなんて甘っちょろいこと言うてないで「やりゃいいねん」って感じでしたけどね。(ある意味ゆるい時代なので)
ただまあ、そんなことに高校3年間で「全員が出会えるか?」っていうとで会える人もいれば出会えへん人もいる。それは偶発的なものなんだろうと思う。そりゃ代々「〜家の総帥の孫で・・を継ぐ宿命にある」とかそう言う人だっているだろうけど「何も決まってませんし、外界から一歳なんの効力も受けておりません」って人もいるでしょう。(垂直効力とか言わないように。重力に魂を惹かれてるって?赤い人の演説聞きすぎなんでしょう。銀河万丈さんじゃなくてよかったね。)いずれにしても、3年で学年全員に「人生を変えるような出会いをプレゼントする」機会を提供する学校があったら見てみたいですが、無理そうです。
そんなことも、件の生徒さんは多分わかってらっしゃるだろうし、それでも怒りが収まらないんだろうなぁ、と推察します。し、ある意味このかたは自分の人生の何分の1かを使って、旧体制を「駆逐せよ!」行動を起こされるでしょうから、まあこの方はある意味ではもう「探究が始まってる」し、止めても止まらないでしょう。大学行っても、教員になってるか、オルタナティブな教育施設なのかわかりませんけど、何かするんだと思います。政治家かもしれませんね。いずれにしてもこの方なりの仮説に基づいて進むだけだと思いますし、それでいいんですよ、って思います。別に探究の成果を学校の発表枠で出さなくても、いきなり外部発表それこそ、マイプロでもチェンジメーカーズアワードでもなんでも個人資格で世に問えばいいんだともうんですよ。文科省に直談判したっていいんだと思うんですよ。(あんまり意味ないと思うけど)
で、僕はこう言っても、教員なので、僕なりに考えて気になるのはこの生徒さんのような思いで過ごしてる「サイレントマジョリティ」でしょうか。自分の学校は「自由」なんで、結果もある意味自己責任になってます。ってなると出会うか出会わないかは個々の生徒次第だし、それでも結果は不平等だし「偶発性が高い」と感じます。これに対して「もっとやり方示したほうがいい」とか言う声もあると思うけど、でもやり方なんて誰にでも合うものもないし、自分が使いたいって思う道具じゃないと自分は嫌なタイプなので「誰にでも好かれるもの」ってろくなもんじゃない気もするの「得物は自分で探せ」派なんですよね。だから生徒にも「まあ基礎の基礎はやるけど、あとは自分でなんとか探すか周りの大人に相談するか、AI使ってもいいし。」って感じにしてるけど、意外にAI使わないよね。タブレットで使えないようにしてるからか。つまり、補助輪つけたり教材増やして「出会える確率上げてやろ」って教員のある意味親心もあるけど、「面倒くさい」ってのもあるんと思う。非効率さを嫌がるっていうか。まあ、これまで無い業務がいきなり何の追加料金も説明もないまま上から降ってくるわけで「堪ったものではない」って教員の気持ちも僕はわかるので、「まあ生徒は放っておいてください。話を聞いてやってください。話しかけてやってください。」ぐらいしか言えないんじゃないかな、と思ってますけどね。その中で出会えたら最高、出会えなくても「あー、この1年では出会えへんかったわ〜」で、いいんじゃないかと思うんだよね。成果物も無理して作ろーってするのはアリバイ作りの可能性も否定できんけど「手を動かしてる時に瓢箪から駒もあるしな」ってところもちょっとはあると思う。手に職系だな。でも実際ポスター作ってる時に降りてくるってあるんよね。動画もそう。やから、本当に何が大事なのかは「本人がとりあえず動き出すこと」が大事なんであって話し合うとか、刺激受けるとかは大事だと思うけど、どっかで手放す、成果は求めない、成果上げたら手放しに喜ぶ、褒め称える、が大事なんじゃないかな、と思う。けど、まあ、本当に、闇深いな、とは思いましたな・・・。
https://note.com/ryo_imam/n/nff4789a79afc