コペルニクス、ダーウィン、フロイト*チェス、将棋、囲碁

 コペルニクス、ダーウィン、フロイトは、人類に革命的な屈辱を味わわせたトリオとして知られている。まずコペルニクスが、人間の住む星は宇宙の中心には位置していないと言った。次にダーウィンが、人間の起源は神ではなく猿なのだと示した。そしてフロイトが、人間は己の意思の主でさえないと論じた。フロイトは自分の研究の影響力を過小評価しなかったので、「私は街で石を投げつけられるだろう」とまで恐れた。だがどうあれ、それらの屈辱的学説は結局のところ、人間たちが本当の意味で真剣に猛り狂ったり苦悩に沈んだりするようなものではなかったのだし(例えば金や人間関係の問題ほどではない)、少なくとも現代人はその屈辱にすっかり慣れることができた。誰が何と言おうとも、人類はこの世界でおおむね好き勝手にやることができている、それは変わらないではないか。だからもしもいずれ第四の屈辱があり、今度こそ人間たちを深刻に打ちひしぐのだとしたら、それは何光年先もの遠くや何百万年前もの過去や実感のない抽象概念を問うものではなく、具体的に我々の生活と権利を貶めるものでなければならないだろう。
 

 
 ボードゲームは、チェス<将棋<囲碁の順で、局面の分岐が多い(単純に言えば、ゲームとして複雑になる)。分岐数に比例して求められる計算量も増すため、そのゲームで人間に勝ちうるコンピューターソフトを作成しようとすれば、同じ順でより高度な技術開発を要することになる。実際、1996年にスーパーコンピュータ「ディープ・ブルー」がチェス世界チャンピオンのガルリ・カスパロフに歴史的一勝を収めてから、2013年に「ポナンザ」がコンピュータ将棋ソフトとして初めて現役プロ棋士に勝利するまで、それなりの年月がかかった。
 だから囲碁で同じことが起きるのもまだ先のこと、少なくともあと10年はかかると言われていたのだが、現実にはわずか数年後の2016年、グーグル・ディープマインド社による囲碁プログラム「アルファ碁」が、トッププロのイ・セドル九段を下すに至る。しかもその際AIが見せた手は、人間的な囲碁の常識からかけ離れたものであり、「上手い」というよりもはや「異様」だった。見ていたキム・ソンリョン九段は、「『アルファ碁』はデータにない手を打っているようで怖い」とコメントした。「『アルファ碁』の自己学習能力が進んでこういう碁を打つなら、人間はあまりにも無力な気がする」。テレビ放映の解説を務めていたソン・テゴン九段は、「アルファ碁」の手が説明できないことを率直に謝罪した。「視聴者の皆さんに申し訳ない。イ・セドル九段の敗着が分からない。人間の目で見ると、『アルファ碁』はミスばかりしていた。今までの理論で解説すると、『アルファ碁』の囲碁は答えが出ない」。したがって問題はもはや、AIが人間を超えた云々という類のものではなかった。AIはいつの間か、人間には理解さえできないものに成り果てていたのだった。
 それぞれのボードゲームにおいて当然、人間が以後も競技を存続させる意義は問われた。時速300キロで走るマシンが開発された後に、人類が徒競走を続ける意味はあるか? あるいは——おそらくもっと近しい喩えでは——超高性能の計算機が存在するというのに、人間たちが円周率の暗算を競うとしたら? 意義は見出だせるだろう、もちろん。だが、それはもうこの世界で最高レベルの追究ではなくなってしまう。「ヒトにしてはすごい」という留保がついてしまう。チェスにおいて歴史が動いた1996年、『将棋年鑑』は「コンピュータがプロを負かす日は? 来るとしたらいつ?」というアンケートを実施し、多くのプロ棋士は「来ない」と答えたのだが、それは同じく多かった「来ないでほしい」という回答と同義だったにちがいない。その中で、塚田泰明九段(当時八段)の回答は、いかなる悲壮感も帯びず、まぶしいものだった——「希望としては、自分が現役の内に」。おそらくはこのような探求の精神、気概に支えられて、ボードゲームは今日も人間の手で競われ続けている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?