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私は私という人間の形を知りたい
はじめ、自分と向き合うためだった文章を書くと言う行為は、いつしか店の代表としてクライアント様に向けて書くものに変わった。
今困っている方、悩んでいる方達が、たどり着く先としての文章。
「自分だけでは無い」と、暗闇にともる灯りとなる文章。
「私の中の森」は私の中にあるものだったのに、いつしか外へ向けて開かれているものになっていた。
それは、ブログに掲載すると決めた時から、そうなっていたのかもしれない。
じゃあ、「私と向き合う」は、何処へ行ったの?
私は「店主」となり、「私」は?
純粋に文章を書きたい。
自分と向き合いたいし、自分と対話したい。
自分と言う人間を、別な視点からみたい。
そうじゃないと、私は私を失ってしまう。
深く、深く、自分の中に潜って行くように、文章を書きたい。
一人の私として、書きたい。
自分の内側をガリガリ削って、眺めて、磨いて、壊して、組み立てて。
私は私と言う人間の形を知りたい。
仕事を離れて、純粋に書きたい。
ずっと、自分の内側が枯渇していくような感じがあった。
言語化は出来ていなかったから、自分で判っていなかったけど。
自分の内側を旅して、地図を作ろう。
かつて、森の中を歩いた、過去の私のように。
どんなに依頼があり、成果をあげ、クライアント様が元気になっても、「個」としての私は乾いていく。
枯渇していく。
そんな感じがあった。
Web雑誌に書いていた頃はまだ、創作意欲が満たされていたけれど、店主としての顔で描いた文章は、ある意味で、その時の最善で完璧でも、別な意味では私を飢えさせていく。
私は、スピリチュアルなものに触れていないとダメなのかもしれない。
それは、世間一般で言われているような、キラキラ、ふわふわ、ご都合主義、インチくさい、作り物のスピリチュアルもどきとは違う。
かたちだけなぞって、スピリチュアルな振りをする事でもない。
私にとってスピリチュアルは、内側から沸き起こり、自然界の一部のように制御できないものだ。
その時だけ、異空間に行っているような、自分の内側にある空間にもぐりこんだような感じ。
周囲が暑くも寒くもなく、空気が変わり、濃密になったような、そんな空間。
そんな空間が私の内側にあるのだろうか?
その空間に囚われると、時間を忘れ、寝食を忘れ、自分の内側に深く潜り込み、時間さえ忘れてしまう。
そんな風に、私の内側にある空間も含めて、私は私という人間の、肉体も、形ないものも、全て形をなぞり、知っていきたい。
私にとってスピリチュアルな世界は、知識や誰かが言った言葉ではなく、私の中にあるものだから。
また再び、わたしの内側に潜っていきたい。
取り憑かれたように、文章を書きたい。
内側から溢れ出る言葉を記したい。
そこに確かにある形を言葉にしたい。
ゆく宛無く、過去に書いた文章も含め、ここにしるし、私の中を旅して行こう。
それは、あなたの中への旅ともなるかもしれない。
いつ書いたか不明。
メールの下書きトレイに入ってた。
断食明け2023年6月20日に読み返したら、涙が出てきた。
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