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「便利さ」の主語に僕はいるのか

「あれ?どこだ?」
とある店のセルフレジで慌てる僕。商品スキャンの場所が分からない、パーコードのない商品の選択場所が分からない、注意書きポップが見えない…。もたもたしていると、後ろに並んでいる人から急かされるのではないか、というプレッシャーを感じる。そして、頭の中はグルグルと混乱の渦へ。

世の中では、テクノロジーが日々発展し、人の代わりに機械がその役割を担うようになり効率化が進んでいる。その結果、「便利さ」により生活が送りやすくなっている人たちが大いにいる。しかし、それは「誰もが」なのだろうか。その中に僕は入っているのだろうか。

僕は、先天性白内障という視覚障害の当事者である。仕事はできるが、弱視や斜視、複視などもあり、生活していると多々困ることは起きる。それでも、周囲の人たちの助けをもらいながら、なんとか生活することができている。
今回のセルフレジの一コマでは、その周囲の人たち、つまり店員がいないことで起きた「不便さ」だった。画面の文字は小さく、画面いっぱいに複数のアイコンが表示されている。手順もいまいち分からない中、目的とするアイコンを探し出すことは僕にとってはお湯を張った浴槽の中にコンタクトレンズを落とした時の様な絶望感がある。落とした時は終わったと思った。
視覚障害がない方にとっては何ら不便さはなく、店員と非接触でありストレスも少ないかもしれない。ただ、僕のようにうまく画面が見えず、困っていても店員が直ぐ近くにいないと愕然としてしまう。
これは視覚障害がある方に限った話ではないと思う。機械操作が苦手な人、手が不自由でバーコードに商品をかざせない人、背が低くて画面が見えない人…考えればきっと他にも便利さの裏側で不便さを感じている人がいるのではないだろうか?

物事において、100%を対象とすることは難しいのかもしれない。一定数その枠からはみ出てしまう人がいるのかもしれない。
だからこそ、自分が見えてる範囲だけで想像するのではなく、様々な当事者の語りを知り、思いを馳せ、不測の事態に対応できるように補償できる状態が必要なのではないだろうか?それは、大それたツールではなくても人と人とが手を取り合うことで解決できることがあると思う。

改めて、皆さんにも「便利さの裏側での不便さ」について考えてみてもらいたい。
便利さとは?誰が主語なのか?そこに「あなた」はいるのだろうか?

~ よしだ ~
:医療機関にてこどもたちのリハビリテーションに従事する作業療法士。
 自身が先天性白内障の当事者でもあり、「当事者支援者」として活動中。



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