『論語と算盤』の渋沢栄一 一万円札で登場(『報徳』2024年8月号巻頭言より)
7月3日、渋沢栄一の1万円札が遂にお目見えした。2019年に予告がされて5年、その間の2022年には、NHKの大河ドラマ『青天を衝け』の主人公になるなど、次第に馴染みになった。
『論語と算盤』は、二宮尊徳の「道徳と経済」の関係を渋沢流に読み替えたものである。「経済のない道徳は労多くして功少なし、道徳のない経済は永遠の道保ち難し」と尊徳は言う。渋沢はこれを受けて、「道徳」と「経済」の間に横たわる様々な問題を解明した。
両者のはざまに、志を立てること、業を起こすこと、成功すること、持続させること、そして義侠心、無私、忍耐など、さまざまモメントを位置づけ、経営の奥義が論じられる。尊徳の思想と実践を受け継いだ財界人の第一人者である。
栗山英樹さんは、本誌新年号で、日本ハム監督時代、選手たちにこの『論語と算盤』を手渡した話をされた。誠実な振る舞いと、自分の利益だけでなく他の利益も考える渋沢の経営論には、選手の成長、組織作りにつながる人間教育の精髄が込められていると語られた。
大谷翔平も「難しかったっす!」と言いつつ、目標達成シートに課題として書き加えたという。栗山さんの近著『育てる力』は、副題に「『論語と算盤』の教え」とある。平成・令和版の『論語と算盤』と言っていい本である。
道徳と経済の問題は、私たちの日々の生活の中にも、いろいろな形で現れる。1万円札とは毎日縁があるわけではないが、渋沢栄一と対面しては思いを巡らすことは、今の日本にとって大切なことではないだろうか。
尊王攘夷からパリ万国博へ
渋沢栄一は、1840年・天保11年、深谷市の農家に生まれた。父を支えて藍玉の生産販売や養蚕に携わる傍ら、従兄の尾高惇忠から『論語』を学び、これが渋沢の生涯を貫く思想の基礎となる。
江戸に遊学し、尊王攘夷の影響を受けて高崎城乗ったりを画策したりするが、その後、京都に上り、平岡円四郎の紹介で一橋慶喜に仕える。幕臣となって将軍となった徳川慶喜と江戸に移るが、弟の徳川昭武に従ってパリの万国博に同行する。西洋文明の衝撃は大きく、汽車、新聞、上下水道、紙幣、銀行と、見るもの聞くものから決定的な影響を受け、日本の近代化を目指すその後の基盤はここで得ている。
大政奉還で帰国し、徳川慶喜に従って静岡に赴き、そこで日本で初めての株式組織「商法会所」をつくっている。
報徳仕法をめぐって
明治2年に渋沢栄一は大蔵省入りを求められ、井上馨の下で財政改革に取り組んだ。西郷隆盛が渋沢を訪ねるエピソードは興味深い。
相馬藩の報徳仕法が財政改革で廃止されようとしている。富田高慶から陳情を受けた参議の西郷隆盛が、「この良法が廃絶されるのは惜しいから、存続できるよう図ってくれ」と頼みにきたのである。西郷は仕法の内容をよく知らないで依頼に来たらしいので、渋沢は尊徳の決めた「興国安民法」の詳細を語る。渋沢自身、これが全国に行き渡ればよいと考えてのことだった、藩にだけ仕法の存続を求める西郷に「日本全国のためはどうなるのですか」と問いかけている。
結局、西郷にとってはこの陳情は通らなかったし、渋沢にとっては報徳仕法の全国展開に西郷が力を貸してくれなかったという思いが残ったろう。しかし報徳仕法の評価は一致していた。西南の役がなかったなら、鹿児島に報徳が大きく広がったことは疑いない。
民間に転ずる
度量衡の制定、全国測量、廃藩置県、貨幣制度、銀行条例など様々な課題と渋沢は取り組んだが、明治6年、大蔵卿となった大久保利通のやり方に反発して、井上馨と共に大蔵省を辞めている。
その後一貫して民間で活動し、商工業への偏見と闘いながら多くの会社を興している。東京海上火災保険、王子製紙、東京ガス、キリンビールと今に残る会社を含め五百の会社を興し、東京養育院、日本赤十字社など六百の社会公共事業を展開した。高等教育の充実を期して一橋大学、東京経済大学、東京女学館などを起こしている。
道義の伴った利益の追求、公益と私益の一体化など、渋沢栄一から汲み取るものは無限だが、ここでは差し当たり印象に残った三点を挙げておこう。
二項対立
まず二項対立である。渋沢は、菅原道真の「和魂漢才」を引いて、「士魂商才」を説いている。
全く異質な二つをぶつけて両立させる発想法で、そもそも「論語と算盤」がそうだし、尊徳の「道徳と経済」がそうである。矛盾したものの統一であるから強靭な思索力と実践力が求められ、試行錯誤の繰り返しになるが、それだけに生まれた価値は創造的である。
世の中は昔以上に矛盾や対立が顕著になっている。それだけに良きもの、高きものを目指し、矛盾しているものを高い次元で統一することが求められている。
対立しているものを円の中に入れて考える一円融合にも通じ、現代において最も求められる方法である。
夢七訓
人間は何のために生きるか。答えは人によって異なろう。しかしその根本には幸福欲があるのではないか。
人間通の渋沢は、この幸福欲にしっかりフォーカスして次のように語る。
まず幸福をもたらすものとして、夢見る能力を挙げている。そして。
夢、希望、憧れは、人間存在、人間生命の根源にあるもので、それは幸福欲と対を成すといっていいだろう。
渋沢は経営者らしく、計画、実行、効果を織り込んだ、極めて実用的な幸福論を展開している。思わず微笑んでしまうが、実践的でまさに正鵠を得ている。
生きることの機微と根源にふれた「夢七訓」である。
昭和6年、満州事変の年に世を去る
渋沢は、1931年・昭和6年に亡くなっている。満州事変の年である。満州事変は9月18日、亡くなったのは11月11日。まるで満州事変以後の歴史を拒否するかのようである。このことは日本近代史への熟考を促す。
「満蒙は日本の生命線」を掲げ、日本は中国に軍を進め、東南アジアに拡大した。道徳なき経済は犯罪と言われるように、犯罪的な侵略戦争を展開していく。2000万とも3000万ともいわれる人たちが犠牲になり、日本でも300万人が亡くなり、国土は焼け野原になった。
満州事変から14年で日本は廃墟と化した。だが日本は戦後、満州、台湾、朝鮮、サハリンと「生命線」をすべて失ったにもかかわらず、15年後には世界第二の経済大国の基盤をつくったのである。
「満蒙は日本の生命線」「大東亜共栄圏」などは全くの嘘であり絵空事だったのだ。一億一心、その虚構に乗った日本人とは一体何者であったのかは、渋沢精神と対比して、よく考えなければならない問題である。
差し当たりここで押さえておくべきことは、戦後復興に献身し、高度経済成長を推進したのは、日本人に流れている二宮金次郎的な精神であり、論語と算盤のエートスであったということである。
福沢諭吉から渋沢栄一へ
40年ぶりに1万円札は、福沢諭吉から渋沢栄一に変わった。福沢のモットーは「独立自尊」である。果たして日本は、この40年間、福沢精神を貫けただろうか。
振り返れば、石油危機を科学技術革命によって乗り越えたまでは良かった。しかしその後の展開は情けない限りで、日本の良いところを次々に失っていった。
1980年代、日本を抑え込もうとするアメリカの経済政策、ウルグアイ・ラウンドが発動し、日本の政治も外交もそれに追従していく。福沢の志とは裏腹に、アメリカとの関係で日本は自主性、独立性をますます失っていった。
その後が、新自由主義、市場原理主義、構造改革である。どれも結果はマイナスに出て、かつての一億総中流が格差社会になっていく。
弱くなった日本が、集団的自衛権によって世界最強の軍隊に入れば、自衛隊は指導権のない傭兵と化すことは自明の理である。日本は本当に独立した国家なのだろうか。
「独立自尊」の福沢諭吉が、涙を流しながら退場していくのが、現在の日本の姿のような気がしてならない。
これから40年後、渋沢栄一を福沢諭吉と同じ運命にさらしてはならない。私たちに求められているのは、明治・大正・昭和の近代的発展をもたらして渋沢栄一の思想と実践であり、その現代的活用である。そして、その基盤には二宮尊徳がいる。
国家とは、政治とは、国民にとって一体何なのだろう。民間の社会的活力を生き生きと発動すること、このことこそが国民が幸福と平和へとつながる鍵である。
渋沢栄一の1万円札を手にして私たちは、こうした想いを日々新たにしていきたいものである。