早稲田卒ニート110日目〜「行きつけ」を発掘せよ〜
誰しもが「行きつけ」を持つ。とは限らないかも知れないが、重要なことである。それは、僕らが日常と非日常とを行き来することでこそ生きられるからである。
今でこそ言うことはなくなったが、「教室の勉強机以外の勉強机を自分で見つけよ」と高校生には放言していた。大学生の勉強など、机でやるものとは限らないのである。
私にとっては、仙台では「芳正」である。
ここ以上に日本酒のセレクトに喜ぶ店は無い。
また、大学生の頃から、例えばBenFiddichの存在が私にはあった。これはあまりにも特別な場所である。新宿駅西口側S-2出口の階段を上るときのあの昂揚感が、私の大学生活の全てと言っても良い。
こちらを始めとして、バーという存在が一体どれだけ人生の「救済」としてあるかを思い知った。人生が幸福かどうかは行きつけのバーをどれだけ持つかに拠る、というのが私にとっての結論である。
しかし、その結論の根拠は人それぞれあるし、それぞれであっていいし、何よりあるべきである。皆が同じ結論を認めるのではつまらない。結論とは唯一解を意味しない。僕らの人生背景が皆異なる以上、普遍的な「正解」は無く、であれば、僕らは何が正解であるかを「信じる」他はない。受験勉強のように、答えが定まるような問いではない。
受験勉強にすっかり慣れ親しんだ人間には馴染みにくいことがある。それなのに、小学生の頃からその土壌を作られてしまう少年少女が多いことを、中学受検の指導を通して知った。「医者になりたい」だの、「東大に行きたい」だのと言う小学生の多さに驚く。いやいや、それが本当に君の人生なのか?
そんな疑いを持たぬまま高校まで上がってしまうなら、どこかでそれを解体してやるのも面白いし、それなりの意味があるだろう。失敗や挫折の経験無き「秀才」が「堕落」することの価値も、ひょっとして中学受検をこの目で指導しなかったらわからなかったかも知れない。
ただし学生が話を聞いてくれるかどうかは別問題である。「わかりやすい授業」の追求は、わかりやすさと引き換えに何かを犠牲にしなくてはならない。それが「感動」であるとしたら、一体どうすればよろしいか。問いは尽きない。
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来週は鳩山会館に出向くが、久しぶりに新宿のバーへ行く。オールドボトルを扱わせたら、右に出る者などあるわけが無いと断定できる方である。大学生の頃から通っていたところであるが、久しぶりの訪問を楽しみに、残りの勤務を、後ろ向きながらも辞めずに続けたい。