仕事とは、厨二病になること
塾講師のバイトを1ヵ月でやめたのは、今年の7月末のことでした。
正確に言うとチューター(講師のサポートをしたり、自習している生徒の質問対応をしたりする仕事)を2カ月やっていたので3カ月ではありましたが。
そこから稼ぎ口がブログだけになって約5カ月(本業は大学生ですが)。最高月収は132円。バイト時代の136分の1になりました。にも関わらず続けられたのは、「文章で自分の思いを表現する」と心に決めたからでした。
イタい人だと思われるかもしれませんが、こんな歌詞もあります。
決心のきっかけは理屈ではなくて
いつだってこの胸の衝動から始まる
僕は人が変わるときって、厨二病になった時なのではないかと思っています。
思い
自分が塾のバイトを始めた理由もまた、厨二病だったからです。
中3の頃、自分は塾の先生を尊敬していました。単に難しいことを教えるだけでなくメンタル面で、かなり救われたからです。
(↓そのことは履歴書にも「入社理由」として書きました)
自分の第一志望は開成。日本一の高校です。
ただ、それ相応の実力があったわけではなく、夏明けの模試の志望校判定は20%でした。3年の2学期は特にスランプだった記憶があります。
10月、志望校も決めなければいけないというタイミングで先生に呼び出されました。第一志望を開成にするか同じ受験日(2/10)の慶應にするかを決めるための面談でした。
自分は、どうせ成績が悪かったのを怒られるんだろうと思い「慶應でいいです。」と言いました。そのときの先生の言葉は今でも印象に残っています。
「お前、本当にそれでいいのか?」
驚いたのと同時に、その言葉は自信のない自分の背中を常に押し続けてくれました。
(後にバイトで教える側の立場に立った時、「生徒を第一志望に受からせる」という責任がある中、あそこまで思い切ったことを言えるのは難しいと実感しました。)
それ以来、いつか教師になって自分のように開成を目指すか迷っている生徒に「お前、本当にそれでいいのか?」と言うのが夢だったのです。
振り返ってみると黒歴史です(笑)チョーハズカシイ。
夢破れる
夢を見て実際に挑戦してみると、辛い現実を突きつけられるというのが世の常。自分も現実を見て、絶望しました。
「教える」ということの責任が重すぎたのです。
この説明は端折りすぎてないか。この説明は回りくどくないか。この説明で授業内に収まりきるか。
生徒に間違って伝わってしまったらどうしようと不安になっていました。
朝から晩までタイマー片手に何回も1人授業をしました。授業準備に12時間はかかっていたと思います。しかしいざ授業となると不安になり吃音が止まりませんでした。
周りからは「それ、自信がなさそうに見えるからやめなさい」と言われましたが、やめられる気がしませんでした。自信が「なさそう」なのではなく、本当に自信が「なかった」からです。
そして「開成を目指す生徒に背中で語る」という夢は儚く消え、「余裕がないヤツが『背中で語る』なんてでかい口叩くなよ。」という反論もできない現実だけが残りました。
結局バイトは、キリの良かった夏期講習前にやめることにしました。
「はたらいた」とは言えない
あの頃「開成を目指す生徒に背中で語る」という夢を見続けられていれば、今も講師を続けていたでしょう。
しかし、あの夢は二度と見ることができなくなってしまいました。周りに死ぬほど迷惑をかけてきたからです。
勤務初日にスニーカーで出社。コロナ禍で忙しい6月にいきなり「講師をやりたい」と言い出す。校長を授業練習に付き合わせ、散々振り回した挙句、講師をやめる。
迷惑をかけまくっておきながら周りには全く還元しなかったのかと思うと、それは「はたらいた」と言えるものではありませんでした。
酔っぱらっているくらいがちょうど良い
このとき、18歳にして酔っぱらってないと仕事ができないという人の感覚が理解できた気がしました。
同時にそれは悪じゃないと思うようになりました。
酔っぱらって出てくる言葉はその人の化けの皮が剝がれた状態だ。
という言葉があります。
それだけ自分にも周りにも嘘をつかない状態で働けているということなのではないでしょうか。
厨二病になれるって素晴らしい。
なんて思っている自分はすでに厨二病ですね。
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