本を読む時は、耳をすまして。
文章は、音楽に似ている。
部屋の片づけをしていて、テレビの裏から川端康成の『眠れる美女』が転がり出てきた。
掃除中に出てくる本は危険だ。必ずと言っていいほど、読みふけってしまう。この日も、私はクイックルワイパーを放り出して、川端康成ワールドに突進してしまった。
そして、実感したのである。
文章は、音楽に似ている、と。
本を読む時、私は心の中で文章を声に出している。
一語一文を、そっとかみしめるように。
なので、私の読書はゆっくりだ。
論文みたいなものは、速読の達人からコツを伝授していただいたので、いくらか速く読めるようになったけれど、それでも私はのろのろしている。
特に時間をかけるジャンルは、やっぱり小説だ。
その中でも、日本文学は別格である。
言葉のひとつひとつをじっくり舌に載せて、転がして、香りを堪能し、歯ごたえを愉しみ、のど越しを吟味する。
文豪たちが腕によりをかけて選び抜き、あらを削り、雑味を濾し、綺麗に盛り付けた懐石料理。それを頂く気持ちで読んでいる。
久しぶりに読んだ川端康成は、一行目から染みわたる感じがあった。
圧倒された。
でも、それは衝撃を受けて立ち尽くすのとは違う。
むしろ逆だ。広大な静けさ、寂寥というか寂寞というか。
夜中、人知れず原野に降り積もる雪の音を聴くような。
吸い込まれるような、無音。
それでいて、胸の内で再生される日本語の音はどこか耳馴染みがあって、懐かしいような、新しいような、レトロな気分にさせてくれる。
なんて心地の良い文章なんだろう。
川端康成の紡ぐ言葉は、とても滑らかだ。
そこから想起される情景も素敵だけれど、なによりも音、日本語の奏でる音の連なりが、本当に美しいのだ。
氏の作品のほとんどを読んできたけれど、実のところその内容やストーリーを人に話せるほど覚えてはいない。
それでも私にとって、川端康成はもっとも好きな作家の一人である。
彼の奏でる言葉の「音」が、私は好きなのだ。
文章は、意味を伝えるためだけの道具ではないのだ。
言葉の音を組み合わせることで、メロディーを奏でることもできる。
音楽を早送りで聴くなんて人はきっといないだろう。
(今はいるのかな、いらっしゃったらごめんなさい)
本を読むときも、「要約」とか「速読」なんてしてしまったら、もったいない。
意味や伏線をさぐることは、すこしお預けにしておこう。
じっくり耳をすまして、文章が奏でる音楽を聴く。
そうすることで、意外な作家が「お気に入り」になるかもしれない。