同じ人はいないし同じ日もない
人は一瞬一瞬変わり続けている。
生きているのだから。
それでいて大切なことをわかっている人は、
変わることのないものを持っている。
それは特別な何かとか、そういうことではなく、
ただどんな自分も良しとできるか、という柔軟さのように思う。
ありのままの自分。
「輝く」とか、「使命」とか、ちょっと違う特別な捉え方をしようとしてしまうこともあるかもしれない。
「いやもう、ボチボチこうしてやってるのが一番」
ふと、つぶやいたら
「いつみさんが言うその言葉の重さがすごい!」
と笑われた。
そうかなのか?と、一緒に笑った自分は随分大人になったものだ。
結局ジタバタし続けて、
誰かがなんとかしてくれるのではないか、
いや、してほしい!助けてくれ!とか、
必死でがんばれば報われるのではないか、とか、
育ちが悪かったからではないか、とか、
いろんな理由を探している間は、
自分に優しくしてあげることは、
まったくできなかったのだと思う。
真面目に正しく生きるんだ!
と必死になればなるほど、何もうまくいかなかったり、
一体何がどうなっているのだろう…と
余計苦しくなったものだ。
だけど、実は何もどうもなっていなくて、
どんなことにも絶対の正解なんてないのだから、
まあ、今の私もこれはこれでいいではないか、と。
こうしよう、と決めていたことが、
次の瞬間に全然変わってしまってもそれでもいいのだ。
必ずやりたいことは、結局やるようになっている。
やりたいことを思うようにできなかったからといって、それを責める必要もない。
私たちは、一体どれほどの理想像の自分を、
自分に課しているのだろう。
ただでさえ、自分を責めるための情報は家庭でも、学校、社会、テレビ、SNS…あらゆるところから日々やってくる。
高い理想像を自分に課していると、責め方もハンパなく強力になってしまう。
朝は早く起きると健康にいい。
ああ、起きられなかった。
継続は力なり。
ああ、続けられなかった。
綺麗な部屋は運気が良くなる。
ああ、今日も片付けられなかった。
良い親は子どもの才能を伸ばしてあげる。
ああ、それどころか子どもに優しくできない。
お金がもっとあったらいろいろできるのに。
全然お金を稼げない。
あれが、できない、これも足りない、
まるで細い道路で交通違反を見つけようと隠れている警察官のように、自分を見張り続けている。
疲れた。
自分にしてるように、人のことも気になる。
疲れ果てた。笑
自分は、ただ人間という生き物で
なにか特別な自分だけのストーリーを持つ必要もない。
なにもしなくても、この瞬間にも
生きてる人の数だけストーリーがある。
ただぼんやり寝転がっていても、
そのストーリーは動いている。
だからどんな日でも、昨日とは違う今日なのだと、
受け入れて、また明日を迎えていこう。
そして、また新しい『私』でボチボチ生きてみよう。