インタビュー記事 掲載されました
「ひと ~市民活動を支える人々たち~」の冊子にインタビュー記事が掲載されました。
2時間インタビューを受けました。
生い立ちから。
幼少期のこと、学生時代のこと、社会人、娘との二人三脚。
インターネットラジオ、ラジオドラマ、講師業。
プライベートなことまでお話する機会をいただけました。
ありがとうございます。
凛とした立ち姿で人の視線を受け止める、声表現者、声でたのしむプロ。
素直で純真で繊細で優しい。
小学時代、剣道の師範だった父の影響で剣道を習い、父と一緒に日曜大工をしたり、車の整備も手伝っていた。
勉強好きで、教科書か辞書しか読んだことがなかったが、始めて読んだマンガの主人公にあこがれて、中学ではバスケ部に入った。バスケ初体験の山下さんに対して、部活仲間たちはほとんどが経験者で、その差は歴然としていた。一人早起きして校庭のリングを使って自主練習。頑張りが認められて1年生でレギュラーに選ばれた。
高校では、陸上部やバレー部にも属していたがのんびりと過ごしたという。先生に恵まれてきたこともあり教師を目指して大学進学を考えていたが、進路を選択する時期になって「女は大学行かなくていいんだ」と父に言われ方針を転換、専門学校への進学を目指した。映画が好きだったことで放送芸術科を選び進学したいと父を説き伏せた。
専門学校では、キャッチコピーやポスター作成などの共同製作をしたり、映画を1日に1本ペースで観た。ヒッチコックやチャップリンの作品にショックを受け、そこで自分の感性ができあがったのかも知れないという。
卒業後、広告代理店に勤めるも、昔のバスケ仲間からフィットネスクラブのトレーナーの仕事をすすめられ応募。埼玉県東松山で楽しく充実した数年間を過ごす。車で定峰峠をドライブしたり、小学校のバスケットボールチームのコーチを任された。縁あって結婚し一児に恵まれたが離婚を決意。
【わらいき】…「笑って生きよう」の造語。 山下母子の家訓である。
お米がなくなってパンの耳をもらいに行ったこともある。それでも娘と二人「笑っていようね」と誓った。京急百貨店の外商に職を得て生活にゆとりができたとき、2000年インターネットラジオの放送を始めた。
以来20年以上、ラジオ番組を送り続けている。
「ラジオ放送をはじめてから過去を振り返らなくなった。前を向いていられる時間を作ってこられた。」
そして、FMブルー湘南でラジオドラマの制作・放送をしたりと活動の幅を広げてきた。
父の他界、死にかけること三度、と苦しかった時期を乗り越えて、現在は企業や就労支援事業所で、声の出し方や電話応対法、コミュニケーションスキル、カジュアルヨガ、姿勢などの講師を、また朗読指導や美姿勢ストレッチトレーナーなど、姿勢、呼吸、心、体、声がよくなるワークショップを提供している。