【映画感想文】ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ 毒素を抜けないもどかしさと、ジョーカー予備軍の開き直り【※ネタバレあり】
おはようございます。
宇田でございます。
ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ(監督:トッド・フィリップス 主演:ホアキン・フェニックス 公開:2024年)のレビュー記事を投稿いたします。
鑑賞日は2024年10月12日、鑑賞方法は劇場。
土曜日の朝一で観に行きました。金曜日の夜に観ていたら、少々危なかったと思います。ちなみに劇場内は、国内公開二日目ということもあり、ほぼ満席でした。
自分の人生に最も影響を与えた映画は何かと問われた時、2023年以降の私であれば、百回聞かれて百回ともタクシードライバーと答えますが、それ以前の私であれば、百回中六十回くらいはジョーカーだと答えることでしょう。
さて、映画感想文ですが、いつも通りFilmarksに投稿しておりますので、こちらに転記いたします。
前作で堪能したカタルシスを欲して、間抜け面で劇場に蔓延る群衆の心を、制作陣が全て掌握していた。
誰もがジョーカーに憧れ、ジョーカーになれない日々を過ごし、なりたかったり、なりたくなかったり、その葛藤の中で蓄積された毒素を抜こうと、劇場に足を運ぶ。
で、毒素を抜きかけたところでそっくり全部突き返される。
資本主義の上流からやってきたボランティアの職員は、「ここに捨てちゃダメでしょ」と無愛想に呟く。片方の口角だけ少し上げて、去っていく。こちらの目も見ることもなく、また次の弱者にゴミを放る。
そんな救いようのない映画を、金曜の夜に観なくてよかった。土曜の朝だから、なんとか耐えられた。私は、ジョーカーに生きることを許された。
行き場をなくしたこの毒素は、やがて膿となり身体を蝕む。肥大したがん細胞の風は、命の炎に吹き付ける。であるならば、私は私なりのやり方で浄化する他ない。
昨夜できた口内炎の痛みより、まずはこのもどかしさと向き合うしかない。そんなところだ。
そして改めて、主役が主役であり続けることの難しさを感じた。
悪のカリスマになった男は、高飛車な仮面の下の女に誑かされ、恋をする。恋をして、落ちぶれる。落ちぶれて、装う。装って、敗れる。いつか見たカリスマの最後は、最高の虚しさに包まれていた。
でも、だからこそ、私はこの恋愛劇を美しく思う。こうでなくては。やはり人間は、こうでなくては。