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【長編小説】横乗り囚人 episode 1

 一 激昂

 ひとひらの孤高を追い求め、辿り着いた果ては運送業であった。
 長年の腐敗堕落、もとい臥薪嘗胆の日々と決着をつけるべく、背水の陣で勝ち取った大型免許を引っ提げ、飯田橋の小さな運送会社に入社した文元巧は、初日の朝上長から告げられた、横乗りなぞいう研修制度に絶望し、これまで幾度となく退職を打診してきた。がしかし、その度に先方から突きつけられる、独立の約束がどうも悪質で、これに因り彼の心中には、煩雑な葛藤が生じてしまうのだった。

 で、現時巧はその約束された日を明日に控えている訳だが、本来であれば心躍る筈の独立前夜が、如何せん憂鬱で仕方ないのだ。また不思議なことに、かの入社初日に味わった痛みにも、酷似しているのだ。

 喩えばこんな鬱屈とした夜に、何かひとつ願いを懸けて紫空の奥を望み見れば、明日の景色は明るめに映るのだろうか。このひと月、研修ドライバーとして無聊を託つ暮らしを続けてきた巧は、窓越しに空を仰ぎ、その無為な思索に耽っていた。

 よく考えてみると、当初抱いていたトラックドライバーへの幻想は、もはや泡沫のように消え失せ、近頃では隣に座る社員からの叱責で、食事も喉を通らぬ始末だ。

 どこで間違えたのかと回想するのも面倒になり、どうで明日は何かしら変化を迎え入れねばならぬと結論づけたのち、布団へ腹這いとなり、微睡む巧であった。

 凍えるような風が吹く二月の朝。外界から切り離された生温い木造虚室の現。

 曩に見た夢の記憶を忘却し、先に覗く輪郭のない理想郷を目指し、漸く草臥れた布団から這い出た巧の心中には、未だ外には出ていないというのに、切なる帰宅願望が芽生え始めていた。

 殊更に掘り下げることでもないが、巧は、兎にも角にも労働を忌み嫌っている。また他に、責任、社会、常識、家庭、雑談、等にも畏怖の念を抱いている。畢竟、彼にとってそれらは、理が非でも目を背けたいもであるからだ。故に彼は、常日頃から殻の中に閉じ籠りがちであるし、齢三十二にして社交性なぞ一切持ち合わせていない。その代わりと言って良いものか、巧の内には、他の者より幾らか凶悪な破壊欲求というか、つまるところ加虐的な趣味が封じ込められている。がしかし、実社会に於いてそれを表に出して上手くいった試しがないどころか、あわやブタ箱送りになりかけた過去もあり、ここ数年殴る蹴るの暴力沙汰と無縁な人生を歩むよう努めてきた。すると、元が無能である巧は必然的に引きこもり生活を余儀なくされ、その顛末として、金なし、職なし、女なしという、惨憺たる現状に落ちついた次第だ。

 脱却のきっかけとなったのが、運送会社の仕事である。単調な肉体労働を嫌い、コミュニケーション能力が著しく欠如している巧は、トラックドライバーという職をまともに意識した刹那、それがとても魅力的に感じられた。無論、今となれば名残のないことだが。

 嘗て巧は、夢追いに感け、芸の道を志したことがある。彼と似た焙れ者が集う芸人養成学校は、大層居心地が良かったものだ。

 無頼を貫く者は大抵、他者禁制のプライベートスペースを自身の中で保持している。で、社会ではそれを贅沢だとか甘えだとか云って、どうにか個人から切り離そうとするのが常であるのだが、芸人の卵なぞが創る異端な社会に於いては、寧ろそこに踏み込むことをタブーとする傾向にあり、これが巧にとっては実に有り難く感じられた。とはいえ、どこかで金に詰まった挙げ句、夢敗れたが為に今がある訳で、所詮は過去の栄光だ。

 また、大手自動車メーカーの期間従業員であった頃の巧は、曲がりなりにも光明のある世界を回遊していた。底辺労働者と揶揄されようが、当時同年齢であった者の平均値よりかは多くの金を得ていた故、中堅大学卒という、彼には不似合いな肩書きから生じた、くだらないプライドを傷つけることもなく、ストレス性の胃痛や頭痛に悩まされることも、さほどない毎日を過ごしていられたものだ。

 して、昨今はどうだろう。齢三十二にして貯金はギリギリ三桁万円。 偶に来る親からの電話に怯える毎日。胃痛やら頭痛やら、何らかの体調不良に陥らない日の方が珍しい。

 直近二年の職歴は空白で、自費で免許を取得したとはいえ、完全未経験のトラックドライバーとして雇われたこと自体、奇跡を起こしたようなものである。

 かの期間従業員を辞めた直後、やる事なす事が空を回り、自分は無職にさえ適性がないと識ったとき、巧は酷く落胆した。そして、自暴自棄になった末に、諦めた。諦めてから、二年もの歳月を無駄にした。

 かように落ちぶれた人間は、まして巧のように元から凶悪な心を封じ込めて社会に溶け込んでいたような人間であれば尚更、浮世から幸福を奪い去りたいと思い始める。しかし人であるが故に、一度は保身を考え、多くはそこで踏み止まるだろう。現に巧も、踏み止まった側の人間だ。が、そうでない少数派の者が、所謂無差別殺人なぞいう凶行に及ぶのだ。とどのつまり、社会から滑落した先には、血みどろの地下生活が待ち受けている。であるからして、巧は常々安堵する。どれだけ汚くとも、自身が今日も地の上で生きていられることに。

 さて、今日も今日とて肩肘を張って着替えを済ませた巧だが、その彼の前に立ち塞がった障壁は、驟雨であった。こんな憂鬱な朝に限って、鋭い雨が肌を刺しに来る。天は人の苦悩も知らぬげに、更に人を痛めつけるものだから。

 で、結局最寄りの江戸川駅まではビニール傘を差して行くこととした。このまま外には出て行かぬという選択もあったが、何せ今日は待ちわびた横乗り最終日だ。何かしらの嫌な予感は絶えないが、前進する他ない。
 因みにこのとき時刻はまだ、五時である。トラックドライバーの朝は、早いのだ。

 駅前の雑踏を抜けて、二階のホームへ昇った。すると赤と青の横縞で飾られた車両が遠くに見え、かと思えば、直ぐとやって来ては停車音が耳を劈く。巧は、直ぐと座席を見つけた。憂鬱な通勤ラッシュの大波は、もう少し先で待ち構えているらしい。

 向かいには、隣り合って座る男女の姿があった。二人は学生なのか、揃って制服を着崩している。女の方は何やら熱心に本を読んでいるらしく、男の方が時折その顔を覗き込むように、話しかけている。傍目から見ても、親密そうではあるが、何れは壊れてしまいそうな、脆く儚い関係と窺えた。そしてそれが余計に、巧の胸中を曇らせるのだった。

 一駅、二駅と過ぎて行く中で、巧はまた別の乗客を見た。今度は三人連れで、男二人に女一人という構成だ。皆、皺の少ないスーツで身を包んでいる。サラリーマンだろうか。不可思議に思ったのは、一見すると三人が均等に談笑しているようで、男二人がまるで目を合わせようとしないことだ。恐らくだが、大した関係性ではないのだろう。大方、仕事上の付き合いといったところか。あまつさえ、女がいなければこうして通勤を共にすることもないのだろう。阿呆が。そう思う一方で、自分はどうなのだろうと自問してみたりもする。本質的に大差ないか、或いは遙かに劣っているのではないか。彼らがその程度の関係しか築けないことに対し、自分はその程度の関係すら築けぬ人間なのだから。

 ふと電車内を見渡せば、知らぬ間に殆どの席が埋まっていた。人間がこう密集していては気味が悪く、息苦しくて仕方がない。窓の外に視線を移すも、混凝土や木板で形作られた人々の住処と、それが建ち並ぶくだらない情景ばかりで、瞳を凝らしてもそこに救いはない。俗界を見下す天空さえ、揺れ動く箱の中から見れば気慰みにもならない。まして今日のように暗い雨日なら尚更。

 かのように閉ざされた空間で二十分と過ごせば、外に出て僅かに湧いてきた気力も、全て削がれてしまうのは必至で、案の定巧は憔悴しきっていた。それでもどうにか、不調に悶える身体を無理矢理に持ち上げ、足早に都電へ乗り継ぎ、職場のある飯田橋まで辿り着くのだった。

 月曜朝の混雑した都会に停まった電車は、開扉と供に内側の人々を吐き出した。その刹那のこと、人という糞尿の密閉から飛散した、汗や菌の悪臭が辺りに充満し、ホーム上を彷徨する人々が食らうジャンクフードの珍臭とも混ざり合い、思わずむせ返る程の極悪臭が生じた。このとき巧は、人は妖怪であり、吐瀉物でもあったのだと、改めて実感するのだった。
 して、それぞれの労役場へ向かって動き出す瀉物らの流れに乗って、やむを得ず汚れた下界に降り立つこととなった。
 
 西口から出て神田川を背に、小さな交番のあるスクランブル交差点を突っ切ると、ラーメンや軽食のチェーンがちらほらと軒を連ねた通りに着く。左に一本外れれば、そこは一昔前のアーケード街で、右に一本外れれば、冷淡なオフィス街が現出する。巧は、暗がりへと足を進めた。
 このあたりから急に人通りが少くなり、偶にある個人商店もシャッターが目立つようになる。暫くと道なりに行き、突き当りにある銀行の角を右へ曲がる。

 その月並みな裏路地の最奥には、駱駝色の醜怪なビルが鎮座している。それはまさに、巧が入社した運送会社の本部であった。指紋と埃と、何か得体の知れない黒や白の液体がこびりついた、ともあれ汚く重いガラス戸を押し開け、薄暗い階段を駆け上がった先に、空漠な事務所が見えた。

 裏口の倉庫前に並ぶ十数台の大型トラックには、まだ誰も乗車していないようだ。怪物のような不気味さを醸す、それらの車両を目にして、巧は少々肝を冷やしていた。面食らったと言うべきか、いざこうして来てみれば、あの巨躯を一人の人間風情が貧弱な四肢で操れるとは、到底思えなくなったのだ。

 横乗り研修は先ず助手席に座るところから始まり、先週からは漸く運転もこなすようになっていた。然らば、それなりに身体には馴染んでいる筈なのに、少々違う角度から見ただけで、どうもトラックが末恐ろしい。恐ろしいのだが、確かに輝いてもいる。車体の銀箔に反射する陽の光が、大型トラックの車体を神々しく演出しているのだ。

 巧は、一体自分が何を望んでいるのか、ついに分からなくなった。いや、もはや何も望んでなどいないのかもしれない。ただ、不安なのだ。きっとこの不安を払拭したい一心で、ここまでやって来たのだろう。では、何が不安なのか。自明である。結局、巧は怖じ気づいているだけなのだ。未知に対し、恐れ慄いているだけだ。ならば、その怯えを振り払う方法は、一つしかないではないか。即ち、信じてやることだ。何があろうと、信じ抜くことだ。横乗りんの暗い回廊から這い出た先に、確かな孤高が待ち構えているのだから。その場所こそ、社会から焙れた自分に相応しい理想郷――それは喩えるなら、終着駅。その先に進めないのではなく、進む意味がない。巧は今まさに、かような場所に足を踏み入れようとしているのだ。

 ひと月にも及んだ葛藤は、今晴れた。知らぬ間に止んでいた今日の雨のように、先刻不意に雲間から陽が差してきたように、唐突にして呆気なく解決してしまった。要するに、そういうことなのだ。迷いながらも、結局は辿り着くべき場所へと辿り着いた。それだけの話だ。

 巧は、薄暗い廊下の窓辺から、迷うことなく右手を挙げた。まるでそこに、天からの啓示があったかの如く、躊躇することなく右手を挙げた。薄い扉一枚を隔て、向こうにはもう他の従業員たちがいるであろうに、人目も憚らず、孤高を確信したが故の勝利宣言をしたのだ。

 で、とうとう新世界への前進を決意した巧だが、先ずは昂ぶった気分を落ち着かせようと、徐に嘆息した。そして一、二、三と深い呼吸を繰り返す刹那、或る回想に耽った。
 そうだ。初めて来た日も、今と同じようにこの扉の前で深呼吸をしていた。あの時もまた、同じだった。横乗りなぞいう言葉自体、識らぬままでやってきた巧は、孤高を掴み取る決心を固め、扉を開けたのだ。

 月日は逆行し、それは年明けから幾日か過ぎ、社会が動き出した頃のこと。

「ああ、今日からの新人か。おはようさん」

 扉まで手を伸ばし切る少し前、背後からそんな声がした。振り返ると、見覚えのある男が立っていた。男は、ほんの僅かに笑みを浮かべ、黄ばんだ歯列が覗いた。

 巧は挨拶を返そうとしたが、社交的な会話を久しくしていなかった所為か、咄嵯には言葉が見つからず、唇を小刻みに震わせることしかできなかった。

 男は、以前面接でも顔を合わせた運送会社の社長で、名前は柳田。年の頃は、四十後半くらいだろうか。髪は薄く、肌は浅黒く、頬は少し弛み落ちている。誰の目にも不摂生が祟っていると映る風貌をしているが、喋りに帯びた陽気さが、全ての悲壮感を打ち消しているようだ。

 巧は、言葉を発せなかったことへの罪悪感と不安で、頭の中が真っ白になりながら、辛うじて会釈だけ返した。そして、おずおずと訊ねる。

「あの、自分は何をすれば良いのでしょうか?」

「そんなに畏まらんでも良い。もうすぐ朝礼が始まるから、そこで君のことを紹介する。君は、まあ軽く挨拶でもしてくれ。で、その後は新人の教育担当から話があるから、どこにも行かずに待っていなさい」

「はあ、分かりました」

「君、名前はなんだったかな?」

「自分、文元と申します」

「ほう、そうかそうか。では改めて、ワシがここの社長を務める柳田だ。よろしく頼むよ文元君」

 柳田は、そう云ってこちらに右手を差し出してきた。巧は、恐縮しながらその握手に応じる。このとき巧は、何とも奇妙な感覚に陥っていた。机越しに見合う面接で、柳田から感じた圧倒的な存在感は、かの空間自体が嘘であったかのように消え失せ、別人と疑るくらいに覇気がない。現にこうして握りしめた掌からは、強者の温もりなど微塵も伝わってこないではないか。

 巧は、柳田の落差に戸惑っていた。それでも礼儀を逸することは出来まいと、丁寧に頭を下げた。柳田は満足げに笑い、ではまたのちほどと云うなり、扉を開いて中に消えた。巧はその背中を見届けたのち、ふらりと視線を外し、彼の後を追うように部屋へと立ち入った。続けて、先ずは様子を探るように眺め回す。そこは広々としたフロアだった。天井は高く、照明は控えめ蛍光灯が使われている。部屋の隅には観葉植物や花瓶が置かれていて、雰囲気としては悪くない。事務員が使うとおぼしき机が四つ、向かい合う形で室内中央に配置され、奥には使い古された四人掛けソファーが見える。

 既に多くの社員が集まっており、各々が各々の場所で談笑に興じている。人数は、十を超え、二十には届かぬ程度だろうか。事務員、役員、配達員と見れば数が合う。

 巧は、言い表しようのない居心地の悪さを覚えていた。が、これから共に仕事を行う連中への興味も、少しだが沸いていた。如何様な人間が集っているものかと、柄にもなく考える彼の視線は、部屋の隅から隅へと自然に流れる。そしてその端で、巧はふと一人の男を見つけた。

 他の群れから外れ、何かしら嫌なことでもあるのか、鉄仮面を思わせる仏頂面で、煙草を吹かしている白髪の男だ。見たところ、五十前後か。まあそれなりに修羅場を潜ってきた強者には違いないが、あのなりは、重役のそれではないと読んだ。彼は、こちらの視線には気づいていないようだった。
 そうして白髪を凝視しているうち、柳田から朝礼開始の声がかかった。で、直ぐさま静まり返る室内。巧も、その空気に流れ白髪から目を離す。
 肝心の朝礼だが、柳田の与太話から始まり、途中僅かに業務連絡を挟んだくらいで、八割方は聞くに堪えない話であった。巧は、かの無意味な時の流れに酷く嫌悪を覚えた。
 が、その終わり際、柳田に促され、巧は社員たちの前に躍り出る羽目となった。途端にこちらへ視線が集中するも、直ぐと逸らされてしまう。誰一人として、こちらと目を合わせようとはしないのだ。皆が皆、まるで異物を目にしたときのように、目を背けている異様な風景を目の当たりにし、巧は自分が歓迎されていないことを即座に察知できた。

 入社初日の出来事として、これは決して珍しいことではない。心が荒み切った労働者たちの渦では、寧ろ当たり前である。その為この現象にはさほど動じず、

「自分、文元と申します。よろしくお願いします」

 と淡泊な挨拶をし、彼の一声を以て朝礼は終わった。

「よし、ちょっと来てくれ」

 柳田の声に煽られ、気怠そうな面持ちのままこちらにやって来たのは、他でもないあの白髪男だった。聞いたところ彼はどうやら、この会社の新人教育を担当しているらしい。

 白髪男は巧の不格好な会釈なぞには目もくれず、傍若無人に話し始めた。

「先ずは積み込み作業からだ。これがなきゃ何も始まらねえ。んで、積み込みが終わったら、各営業所に出向いて伝票や書類の確認を行うか、そのまま直で現場へ行って荷下ろしだ。ここは日によって違う。んで、ここまでが長引けば、昼休憩を挟んで事務所へ帰って終わり。時間に余裕があったり、短距離配送のときは、始めからもう一周。まあ、仕事の流れとしてはざっとこんなところだろうな。簡単とは思うなよ? 体力的には楽な仕事じゃねえし、残業だって毎日ある。三時間までは当たり前にな」

 巧は、その説明を耳にした瞬間、早くも憂鬱になっていた。残業込みの十一時間という長い拘束時間はさて置き、先方の口調が、いやにねっとり系というか、いちいち鼻につくような感じで、巧の脳内を掻きむしるのである。またそれが、こうも予感させるのだ。何かしらとてつもなく、厭な顛末を迎えるのではないかと。

 しかし巧は、自身を蝕むその悪しき思いを振り払った。かように落ちぶれた身の上ならば、完全無欠の理想郷なぞは求めまい。今日この先で孤高さえ手に入れば、それだけでもう充分ではないか。ひたすらそう言い聞かせることで、辛うじてだが、希望を離さずにいられた……のは、ほんの一分足らずであり、刹那には巧の死にかけた心の柱が完膚なきまでに叩き折られてしまった。

「因みに、今日から一ヶ月間はオレの横に乗って働いてもらうぞ。俗に言う横乗りってやつで、まあ業界では当たり前なんだが、一般的にはあまり馴染みがない制度だろう。んでまあ、今日も一緒に乗るわけだが、あんた最初は助手席、もっと具体的に言うと、一週間は助手席だ。その後、頃合いを見計らって、運転席に移る。ただ、助手席だろうと運転席だろうと、積み込み作業は全てあんたにやって貰う。最初は教えるが、慣れてきたら独りで全部やるようにな。オレはそれを見て、あんたの働きぶりを評価しなきゃならんもんでね。まあ、独り立ちした後は当たり前に全部こなす訳だから、ここで躓くようじゃそもそも話になんないってことだ」

 という、嫌味極まりない研修の台頭によって。

 話の切れ端から察するに、運送会社の研修は、原則として横乗りという地獄のような研修制度を採用しているらしく、まあ巧としても何かしらの研修はあると踏んではいたのだが、選りに選ってこのいけ好かない白髪頭と一ヶ月も同乗せねばならぬと来れば、逃走に傾倒するのは必至であった。
 かの惨憺たる現実を突きつけられ、あからさまに顔を歪めた巧の心情など露知らずといった具合に、彼は云う。

「あと、万が一にもないとは思うけど、もし運転中に事故なんて起こしたら、うちは即クビになるから気をつけろよ。怪我とかも、基本的に労災はおりないし、自己責任だ。給料は、まあ時々ちょろまかされるだろうな。んで、こんな会社だからさ、慣れるまでは大変だと思うけど、その辺は割り切るようにしてくれ。あ、間違っても訴えようとか思わないように。うちの社長、ヤバい筋と繋がってるから普通に揉み消されるし、それで過去に何人も始末されてるから」

「は、はあ。そいじゃあ、ちょっとお訊きしたいんですけどもね、その、もしも辞める場合には、なにか面倒なことになったりするもんですか?」

「あーそれはないな。ちゃんと言ってくれたら普通に辞められるから。来る者拒まず去る者追わずのスタイルでやらせてもらってるんでね。第一、そんな根性なしを雇い続けるメリットがないしな。てことで、そこだけは安心していい」

「はあ、そうですか」

「ていうか、文元……君? 入社初日だろ? なんでもう辞めること考えてんの? もしかしてビビっちゃった? どうする? 辞める? まあ今辞めたら給料出ないけどな」

 白髪頭が挑発するような態度を見せたことで、ここまで下手に出ていた巧も、流石に憤慨して答えてしまった。

「はあ? 自分は辞めませんよ」

「あっそ。んなら頑張れ。じゃ、オレ佐藤っていうんで、よろしく。さ、行くぞ」

 佐藤と名乗った白髪頭は、軽やかな足取りで事務所を後にした。巧は、項垂れてその後に続くしかなかった。かくして、久方ぶりの労働生活及びこき使われ人生が幕を開けた。


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