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【長編小説】横乗り囚人 episode 5

 二十時。外はまだ騒がしい。コールセンターという牢獄から放たれ、ひとときの休息を得た二人の背景が、儚くも凄絶に交錯している頃。

 さしあたり静観に徹していたもう一人の論客が、重い口を開けた。

「ずうっと聞いていて、これは言ってやるか迷ったんだが、やっぱり年長者の責任として言わなきゃならん。あんたらはおかしい。ちゃんちゃらおかしいぞ」

 白く伸びた髭を手で雑に整えながら、店主はそう云った。二人は、弾かれたようにそちらを凝視した。

 店主は、巧と川井の顔を交互に睨みつけていた。瞳には、哀愁の色が浮かんでいた。そして、徐に語り出す。

「いくら詭弁を揃えたところで、男の価値ってのはどれだけ上質な女を抱いたかで決まるんだ。勉強をしろと、学校の教師たちが口を揃えて云うのは何故だと思う? 良い大学へ進学するためか? じゃあその良い大学へ行くとどうなる? まあ、それなりに利口な人間になれるだろう。なら、利口な人間になってどうする? 人より多く金を稼ぐか。序でにご立派な肩書きも手に入れたらいい。で、その先にあるものはなんだ? 名誉か偉大さか。少しでも偉大な人間になろうと努力を重ねて、いざ偉大な人間になったら今度は何を求める? って、ここまで来ると、大抵の男は金にものを云わせて女を抱きに走るんだ。そうした上で、ああオレは女とは合わねえなって、そんな風に思う奴は、もしかしたらいるかもな。でも、あんたらは違うだろ。金もなければ信用もない。誰かに誇れることなんて何もない。おまけに大して利口でもなさそうだ。だから、女が寄りつかない。寄りついた試しがない。そうだろ? 何が言いたいかってえと、お前らがやってるのは、哲学でも議論でもなく、単なる傷の舐め合いだってことよ。本当は自分だって行くところまで行ってみたい癖して、それができないから強がりを云ってるだけなんだよ。いい加減そのことに気づこうや」

 店主は捲し立てた。巧は、その勢いに気圧されるばかりだった。間違っている。そんなことは断じてない。そう言って、倍くらいの罵詈雑言を浴びせてやりたいところではあるのだが、何せしっくりくる反論が思い浮かばないうえ、どうしてか喧嘩を売る気にもなれない。それは、やはり心の深いところでは、店主の話にも一理あると頷いているからに相違ない。

 ふと川井を見た。彼もまた、何か言いたそうに唇を揺らしているだけで、一向に言葉を発する様子はない。

 店主は、口ごもる二人に呆れ果てたように顔をしかめ、それ以上何か云うでもなく、少し離れて食器を拭き始めた。

 巧は、それから暫くと頭の中で反駁し、やおらビールを飲み干した。心なしか、酒の苦みが強く感じた。


 結句、逃げるように会計を済ませ、店を飛び出た二人は、当てもなく夜の街を彷徨していた。

 船橋の裏路地は、相も変わらずネオンサインで眩しく輝いていた。一次会を終え、二次会に向かう途中であろうか。着崩したスーツに、千鳥足で歩いている者も少なくない。

 川井が、巧の少し前を歩く。彼は時折振り返り、また前を向く。巧も無言でその背中を追う。もう、何もない。二軒目に行こうと言い出せる空気でもなく、帰るしかないと分かっているのに、どちらもそれを言い出さないものだから、今もなお、無駄な時間を食い潰し続けている。

 こんな時、重い静寂を破るのはやはり川井の方からだった。

「文元さん、怒ってます?」

 肯定も否定もできはしなかった。今自身の内側で行き場を失っている感情が怒りであるか否かなど、確かめようがないからだ。だが、こんなことを訊いてくるということは、川井自身もあの店主の話に思うところがあったに違いない。そう踏んだ巧は、小さく呟いた。

「怒っているというより、迷っているの方がしっくりきます」

「迷いですか。おれは、寧ろ悟ったような気分ですね」

「ほう、というと?」

「あの白髭親父に説教かまされて、そりゃ最初は腹が立って何か言い返してやろうと思いましたけど、よくよく考えてみれば、何も間違ってないなって。図星でした」

 残念なことに、それは巧が纏めようとしていた言葉とは反対のものだった。しかし、ここで水を差す必要もあるまいと、巧は何も言わずにおいた。代わりに問うたのは、別のことだ。

「じゃあ川井さん、これからどうしますか?」

「どうしますかね。明日も仕事ですから、この辺りで解散しましょうか」

「あ、いえ、そうではなくて、何か考えが変わったんでしょう? それが今後の動きにどう反映されるのか、少々気になったもので」

「ああ、そういうことっすか。まあ、とりあえずは自分磨きでもしてみますよ」

「なるほどねえ……」

「あとはまあ……適当に出会い系サイトでも使ってみます」

 そう云って彼は自嘲気味の笑みを浮かべたが、殆ど同時に顔を引き締め、こちらまで届かぬ程の小さな声で、何かを虚ろに囁くのだった。

 回り道を重ね、漸く駅に辿り着いた二人。時刻は二十一時四十分。これ以上の道草を食えないと踏んだ巧は、川井の歩幅に合わせて言った。

「川井さん、最寄りは?」

「佐倉っす」

「自分は江戸川ですから、見事に反対方向ですね」

「そうっすね」

「ここで解散しましょうか」

「っすね」

「そいじゃ、お疲れ様です」

「お疲れっす」

 改札を通り、川井は右手へ、巧は左手へ、今度はそれぞれの歩幅で歩き出した。

 駅構内では、侘しい流行歌が不穏な音を奏でている。刹那、妙な不安が頭から全身へ伝い、思わず足を止める巧。ふと肩越しに目を遣ると、川井がホームへの階段を颯爽と駆け上がっている中頃であった。その背中をじっと見詰めながら、巧は思った。またか、と。

 遅れてホームへ上がった巧は、悠然と空を仰いだ。空の色とか月の形とか、そんなものに決断を委ねた或る夜の情景が、走るように天を横切った。


 爾後、川井はコールセンターに来なかった。明くる日もまた明くる日も、川井はコールセンターには来なかった。

 川井が消えた後の歯車は、規則正しく回り続けた。彼の存在など嘘であったかのように、或いは錆か傷であったかのように。

 空虚な毎日を過ごし、迎えた在る日のこと。いつものように高村からの叱責を受けていた巧であったが、高村がそれとなく独りごちる言葉の切れ端から、川井の無断退職を掴み識るのだった。


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