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失われたものに息を吹き込む――映画『犬王』と能

映画『平家物語 諸行無常セッション』の公開を記念し、以前、劇場アニメーション『犬王』の公式パンフに寄稿したエッセイを転載します。
なぜ、そんな迂回をするかというと、『犬王』原作者である古川日出男が、坂田明、向井秀徳を迎え前代未聞のライブを展開する「諸行無常セッション」もまた、映画『犬王』のなかで見られた「異形の芸能」のバリエーション、もとい「リアル版」だと思われるからです。ぜひ劇場でおたしかめのほど。

近江猿楽比叡座の犬王こと道阿弥について、現在知られていることはそれほど多くない。幽玄を旨とする優美な芸風が時の将軍・足利義満に好まれたこと、能を大成した大和猿楽の観阿弥・世阿弥親子と影響を与え合ったであろうこと、などは史実からうかがえる。

犬王亡きあと、近江猿楽は衰退し、大和猿楽に吸収された。犬王の芸そのものは、世阿弥によって能のエッセンスに組み込まれた、という言い方もできるだろう。

いずれにせよ、私たちがいま能を鑑賞するとすれば、一部の郷土芸能を除き、それは大和猿楽の流れを汲んだものとなる。

かつてまだ本作――アニメーション映画『犬王』が構想段階であった頃、湯浅政明監督が能を観たいというので、案内をしたことがある。

観世流梅若会の能楽堂で演能された『山姥』に誘った。シテを勤めた人間国宝・梅若実(当時:玄祥)の超然とした存在感に触れてほしいのもあったが、そこに囃子方として大鼓の亀井広忠がいることが大きかった。

広忠の打つ鼓の音を、湯浅に聴いてほしかった。その「カーン!」という高い響きが、能という芸能はソリッドな古典劇であると同時に、能楽堂というライブ空間を生かした音楽劇でもあることを雄弁に伝えてくれるはずだからだ。

それから何年か経ち、本作の製作が佳境に入った頃、ある〈声〉について能楽師にオファーをしたいという相談をプロデューサーから受けた。能楽師なら誰でもいいわけではない。自分の手に余ると思った私は、広忠のもとにこの話を持っていった。

犬王が主人公のアニメーション映画である、という私の説明を受けて、広忠が言った。

「考えはありますが、まずは山階彌右衛門先生に許可をいただきましょう」

そうだった。流派としての近江猿楽は途絶えたが、流れを汲む山階座の名跡は現在、観世流宗家・観世清和の弟でもある山階彌右衛門が継いでいるのだった。

すぐに彌右衛門に話を通すと、広忠は〈声〉の担い手として、観世流から4人のシテ方能楽師に話をつけてくれた。片山九郎右衛門、谷本健吾、坂口貴信、川口晃平――いずれも第一線の能楽師たちだ。さらに、広忠自身も能楽実演監修という立場で本作に関わることとなった。

こうして現行の能についても入念にピースを揃えていった本作だが、それはけっして能の形式に準拠するためのものではなかった。むしろ、逆だ。イマジネーションの翼をおおいに羽ばたかせるためにこそ、実際の能の勘所を押さえる必要があったのだと思う。

能はかつて「猿楽」と呼ばれていた。では、観阿弥・世阿弥親子の手で洗練される以前の猿楽とはどのようなものであったのか。

そこには田楽や延年をはじめ、広範で雑多な芸能が存在し、混淆していた。アクロバティックな芸も、ジャグリングのような芸も、仕掛けのある芸も、呪術まがいの芸もあった。中でも、とりわけ新しい芸、珍しい芸が衆目を集めたであろうことは想像がつく。

さて、映画『犬王』に目を向けよう。

琵琶法師の友魚改め友有は、橋の上で琵琶のバチをギターピックのように爪弾き、歌う。隣りには、弦に弓を当て琵琶をウッドベースのように弾く男と、太鼓を抱えて叩く男がいる。三人のコンボは、さながらインディーズバンドのストリート演奏だ。

リュート属の弦楽器が世界各地で民族楽器となっていることを思えば、古来、この国で琵琶がどんな弾き方をされていたか、どんな音が鳴っていたか、さまざまな可能性があるわけで、おまけに新しい音楽に初めて触れた聴衆の衝撃を変換すれば、そこで鳴っている曲がハードロック調なのも、あながち不思議ではない。

この森山未來の演じる友有のシャウトに導かれる場面が、犬王の『腕塚』だ。これまた河原に建てられた簡易舞台は、ストリートパフォーマンスのようだ。当然のように、その舞はブレイクダンスに接近する。

となれば、さらなる盛り上がりを見せる『鯨』の上演は、さしずめフェス会場か。足利尊氏の時代、四条河原で行われた田楽興行に観客が大勢詰めかけ、臨時で設けられた桟敷部分が崩れ落ちてしまい死傷者が出た、という逸話が史実に残っているくらいだから、この場面のオーディエンスの熱狂も絵空事ではない。

本作のクライマックスともいえる足利義満の別邸・北山殿での天覧能については、その舞台に犬王が立ったという資料も残っている。

ここでの犬王の舞は、それまでのストリートダンスとも異なる。器械体操、バレエ……など、まさに史実にある犬王の華麗な舞とはかくばかりか。ロック・オペラに乗せ、モーリス・ベジャールの『ボレロ』のごとき瞬間もある。ジョルジュ・ドンか、シルヴィ・ギエムか、あるいはイギー・ポップに見えたっていい。

意外かもしれないが、こうした場面こそ、能に接近していると思う。

能の謡曲は、大元のあらすじとは別に、その細部は他の作品への膨大な引用で成り立っているのだ。何も知らずあらすじだけでも楽しめるが、枝葉に込められた意味や、元ネタを探すのも楽しい。ここでのハイパーリンクや重層性は、まさしくポップカルチャーのそれである。

能が観世座に一本化されたのと同じく、琵琶法師の語る『平家物語』もまた、当道座・明石覚一のもとで決定版が編まれた。ある流れがオーセンティシティを獲得するということは、その他がノイズとして摘まれていくことを意味する。

能は夢幻能の構造において、亡霊の声に耳を傾ける。その多くが、この世に無念や未練を残した亡霊だ。いや、能だけではない。古来、この国の芸能の多くが死者、とりわけ敗者に寄り添ってきたのだ。

作家・古川日出男は、犬王という能楽師の可能性を幻視し、友魚の琵琶と語りを聞いて、彼らの声を書きつけた。アニメーション監督である湯浅政明は、二人の躍動を克明に描き、息を吹き込む。

私は本作もまた、広義の「夢幻能」と呼んでみたい誘惑に駆られている。

(初出:劇場アニメーション『犬王』公式パンフレット所収/2022年)


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九龍ジョー
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