差別はたいてい悪意のない人がする
お久しぶりの投稿。およそ2ヶ月ぶり。
この2ヶ月、本はほとんど読まず、やらねばいけないことにただただ追われていた感じだったんだろうな。ようやく目処がついたこともあって、ちょっとゆっくり本を読むことができた。やっぱり自分にとって読書はエネルギー回復の役割が確実にあるな。
ずっと気になっていた本を図書館で見かけて、すぐ手に取った。
いつもだったら何冊も借りるんだけれど、この一冊だけを借りて、久しぶりの読書を楽しんだ。
まず、タイトルが惹かれる。
差別ってどこか「意図して分断を生む」みたいな印象を抱かれがち。自分の嫌なものを徹底的に忌避するみたいな。でもそうじゃない、外国人に対して「日本語上手ですね」とか、障害のある人に対して「希望をもってくださいね」とか、良かれと思ってかける言葉の一つ一つに、実は差別的な意識がもろに含まれている。
この本はそうした差別に関する問題とその原因、そしてこれからどうあるべきかについて、丁寧に解きほぐしながら書かれている。
特に印象に残っているのは、能力主義に関する話とユーモアに関する話。
多分、これは自分に引き付けて考えやすかったこともあるんだろう。学校の中でも「能力主義」ってめちゃくちゃに感じている。「〇〇できるのが良い」の価値観をどれだけ無意識的に広げてしまっているだろうか。勉強ができる、足が早い、字が丁寧、忘れ物をしない、姿勢がいいね、良い悪いの基準なんてどこにも明確に線引きされていないのに、教師が発する配慮のない「すごいね」の裏側にどれだけ「すごくない」子どもたちが生まれているんだろうか。そして同じ口で「みんなちがって、みんないい」を語る。ぼやぼやと生きていると、そんなことにも気付けない。
こうやって、自分自身の行いを問い直させられながら、それでも「価値付け」と呼ばれることをどうやって受け入れて考えていけばいいんだろうか。私は、あなたと誰かを比較して認めているつもりはない。ただそれがあなたの良さだと伝えたいだけなんだ、それができ(てい)ない誰かを貶めるつもりもない。
昔、青山新吾先生が「徹底的な個への関心」という言葉を使われていたのを思い出す。教師と児童の良好な関係性の先で、児童に教師からのメッセージを受け取ってもらうことしか、まだ自分にはできないのかもしれない。それでも十分に言葉には配慮していかないといけない。
最終章に書かれている
まさにこれ。自分がぼーっと生きているうちは、マジョリティであるうちは、それ以外の世界に気付けない。ぼーっと生きていてももちろんいいと思うのだけれど、それだけだと見えてこない。日常に疑問を持って生きる、これは問いをもって過ごすみたいなこととはまた違って、疑問の「問」よりも疑の「疑」の方なんだろう。
すこしでも見えない排除が見えるように、行動できる人でありたい。