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集団に流されず個人として生きるには
今日も朝から本棚を眺める。もうこれは日課なんだろう。
工藤さんと苫野さんの本を読んだからか、学級や学校の在り方、集団の在り方みたいな本が目に止まる。本棚全体にザーッと視線を流しながら「最近、新書は読んでいなかったな」と思い始め、この本を読むことにした。
題名だけをざっと見ていると、なかなか本の内容まで思い出すことが難しい。それは自分自身まだまだ読めていないということなのか、内容は覚えていなくても読み返すと思い出すことがあるのか。そもそも「読める」ってどういうことなんだろうかとか、そんなことを本棚の前に立ち尽くしながら考える。
読む前のイメージとしては、これからの時代、個人としてどのように生きていくことが大切になってくるのか、SNSが発展していく中で集団に埋没しないように、どのような軸や考え方、生き方を大切にしていくべきなのか、みたいなことが書いてあるのかなと考えていた。
読んでみると、そうしたことにも触れられている。が、どちらかというとそれらを語るまでを大切にしている。これまでの日本や世界の歴史の中でどのようなことが起こっていたのか、それらがどのように広まっていったのかといった歴史的事象を中心的に扱いながら書かれている本だった。
このように本自体は政治、社会、メディアそれぞれの関係について書いているのだけれど、自分自身はこうしたことを学校教育とか、学級のあり方について引き付けながら読んでしまう。
例えば、第一章「なぜ空気を読むんだろう」に書かれていた
群れる生き物にとって、「全体の動き」に自分を合わせることはとても大切だ。群れが速度を上げれば、自分の動きも速くなる。群れが右に曲がるなら、自分も右に曲がろうとする。この「全体の動き」を別の言葉で言い換えれば、「場」や「空気」ということになる。群れの中の個体は「場の空気」に自分の動きを合わせる。これもまた本能に近い。
こうした部分を読みながら、よくセミナーでも「あなたの学級は集団ですか?群れですか?」続けて「集団と群れの違いってなんですか?お近くの人と話してみてください」なんて聞かれたことを思い出す。
学級の中で、子ども一人一人は「個人」として生きている。ただそれは青山先生の言葉を借りれば「集団の中の個」として生きている。だから本当の意味の個ではないんだろう。学級の中で、個人として生きるっていうのはどういうことなんだろか。個人がより個人らしく生きやすくするために、どんなことができるんだろうか。そもそもそんなことって、子どもたちに求めらていることなんだろうか。
集団で統制された方が動きやすい子ども、それが苦しい子ども、そんなことどちらでも意に介さない子ども、そうした多様な子どもたちと創り上げていく学級の最適解を毎年考えていく仕事なんだろうな。