新年なので意識高めに意識の話をする-『新インナーゲーム』『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』
■ イントロ ― ビル・ゲイツ氏のオールタイムフェイバリット5冊
世の中にしばしば良書を紹介すると知られている人物が何人かいる。その一人がビル・ゲイツ氏だろう。
去る2022年11月、そんなビル・ゲイツ氏のオールタイムフェイバリットから5冊が紹介された。
ひとめで分かるのだが、この5冊のセレクトがちょっと変わっていて興味を惹かれた。というのは、定番の本があまり入っていなかったからだ。これは何かしら発見のあるリストである可能性がある。
5冊中4冊は一応日本語版も手に入る。原題だと探すのが面倒かも知れないので、参考までに邦題で紹介しておこう。
・大人向けのSF入門書:『異星の客』ハインライン
ハインライン作品にはメジャーな名作が多数ある中で『異星の客』をセレクト。アメリカではヒッピーに爆発的に売れたという話なので、あっちだと順当ということになるのかもしれない。確か、日本だとタイムトラベルロマンスで有名な『夏への扉』の人気が一般的には高かったはずで、なんなら2021年に映画化もされていた。
『異星の客』は、電子版がないという弱点がある。また、他のハインライン作品にも言えることではあるが、1969年と翻訳年が古いので、古い文学作品を読みなれていない人には少ししんどいかもしれない。ちなみに、『月は無慈悲な夜の女王』と『夏への扉』は一応新装版になっていて、最低限活字は読みやすくリニューアルされている。ハインライン作品をとりあえず読んでみたいという人は、まずこの2冊を買って両方読むのが個人的にはおすすめである。
『月は無慈悲な夜の女王』
『夏への扉』
・ロックスターによる最高の回顧録:『Surrender: 40 Songs and One Story』ボノ(U2)
これは日本語訳されていない。最近出た本なのにランクイン。興味はないではないが、翻訳されてからでいいかと。
・国を率いるためのベストガイド:『リンカーン』ドリス・カーンズ・グッドウィン
リンカーンの政治手腕と人物像を描く評伝。日本ではあまり人気がなかったのか、amazonでは少々お高いので見送り。
・自分の殻を破るためのベストガイド:『インナーゲーム』W.T.ガルウェイ
テニスの攻略本・・・であるが、その内容は、いかに“意識”に邪魔をさせずに自分に良いプレイをさせるか、みたいな話。リンクは、安く手に入りやすい新版。
・周期表に関する本『メンデレーエフ元素の謎を解く―周期表は宇宙を読み解くアルファベット』ポール・ストラザーン
古代ギリシャまで遡る“元素”を巡る探求の物語・・・らしい。日本ではあまり売れなかったらしくレビューが少ない。気が向いたら読んでみようか。
と、アメリカでの事情はわからないが、日本だと入手するのがためらわれるぐらいメジャー本が少ないリストとなっている。ていうかこういう時に電子版がないのはなかなかきびしいものがある。買って読まなかったら場所を取っちゃうし、いざ読みたいときにどっかいってしまうんだよなあ。
■ 不思議なインナーゲーム
5冊とも面白そうではあったが、今回は、このうち手軽に日本語版が手に入る『新インナーゲーム』を入手してみた。自分はスポーツをしないし、テニスには観戦以上の興味を持ったことはないが、どうしてこれがオールタイムベストに入っているのか興味があった。何となく他の4冊はわからなくもないが、なんでテニス本が入っているのか(ゲイツ氏がテニスをするのは知っているが)、と思ったわけだ。おそらく、たぶんなんかメンタルをコントロールする方法かなんかだろう・・・そう思ったのだが、答えは若干違った。
インナーゲームは簡単に言うと、脳を効果的に使う実践的なメソッドを紹介した本である。我々は、何か新しい技術を習得しようとする時・・・典型的にはスポーツだ・・・アレをこうしてアアして、と頭で考えながら練習を行うことが多い。また、それを実践する場面において、何かがうまくいかないとき、途端に“意識”が活動をはじめ、原因を(無理やりにでも)探し出してそれを意識的に修正しようとする。指導の現場においても、おおよそそのようなことが行われるのが通常だ。
しかし、テニスコーチである著者が発見した効果的な手法は、それと全く異なるものだった。それは、口うるさい“意識”をいかに黙らせて、自分に備わっている無意識的・自律的なプログラムに処理を委ねるかのほうがずっと重要だ、ということである。つまりこれは、ミスターポポのアレのことじゃないか・・・
心を無にする的なことは、昔から何かしらの極意めいたものにはつきもののやつだ。最近ではゾーンとか言ったりもする。こういうのは道を極めたPROの武勇伝によく登場するものだが『インナーゲーム』では、それをコントロールして使いこなすことが提唱されている。
確かに、誰でも多少経験があるように、誰かに横でガミガミ言われているとたいていの物事はうまくいかない。人を指導する立場になっても、あーだこーだ口で言った結果、何かが改善した試しはほとんどないだろう。物事が改善するときは、なにかしら“自然な流れ”の時に変わっていくのが通常で、それをコントロールするのは案外難しいことだ。そして、なんということはない、四六時中自分をしかりつけて、自分を委縮させているのは他でもない、自分自身なのだ。
ここまでだと、なんかオカルトっぽい精神論的な何かなんじゃないか、という気がしてくるが、現代の神経科学の知見と照らし合わせると、そうそう馬鹿にしたものではないということが分かってくる。科学者が何年もかかって少しずつ明らかにしてきたことに、スポーツマンのような求道者は経験的にたどりつくことがある。これもそういったもののひとつだろう。
■ 奥深い我々の情報処理・制御メカニズム
『インナーゲーム』が言っていることを納得感をもって解釈するのに有用だと思われる本を紹介しようと思う。
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
本書は、現代の神経科学で明らかになってきた脳のメカニズムについて、脳を損傷するとどうなるかといったような平易な事例を引きつつ紹介する作品である。
誰もが想像する通り、我々の脳は複雑な情報処理システムのひとつであるが、本書で紹介されているのは、そのシステム全体のうち、我々が直感するところの“意識”がアクセス出来る領域はかなり限定的で、また脳が処理する事柄のうち“意識”が取り扱う部分がそもそも、今後の大方針を決定するとかそういう部分に限られるのではないか、という話だ。つまり、我々が日頃自分だと思っているのは“オブザーバー”であり、結局は口うるさい外野のコーチに他ならない、という話だと言っても良いだろう。
身体のコントロールは非常に分かりやすい事例である。ラケットでボールを打つといった行為をスムーズに行おうとした場合、いちいち細かな筋肉の動作を考えていては、とてもじゃないが出来ない。本書の知見によると、そういった動作のような処理は、それ専用のサブプロセスにより自動化されているということだ。これは運動だとよくわかる話だが、実は運動に限らず、我々が処理する多くの事柄が同様の仕組みで成り立っている。
こういったサブプロセスは、感覚器官を通じて得られる情報からのフィードバックにより適宜修正されていくので、反復すると人は物事が得意になっていく。このプロセスで行われる処理について“意識”はステップ・バイ・ステップでは内容を理解していない。というか、大部分は理解していない、というのが本当のところのようだ。
間違いやすいのは、“意識”は物事にストーリーを付与するという役割を担ったプログラムで、あらゆる物事に説明をつけてしまうため、あたかも“意識”が全てを制御していると勘違いしがちだというところだ。“意識”の持つこの機能は、損傷等により特殊な状況にある脳が、客観的にはどうみてもつじつまの合わない説明を平気で作り出してしまうというような事から明らかとなっていて、同時にその限界も浮き彫りとなっている。
実際に、物事を処理しているのは、我々が認識できない脳のサブプログラムの部分だ。物事を習得・・・つまり自分の機能を拡張・強化するためには、この意識できないプログラムをいかに拡充しブラッシュアップしていくか、ということが重要になってくる。それを実行する上で、“意識”がインプットする情報は解像度が低いため、運動のような複雑な動作を学ぶ上では混乱のもとになる。だから、“意識”を黙らせて、自分の身体の動きをしっかり感じることに集中してトレーニングしたほうが近道だ、ということになってくるわけだ。
我々が“自分自身”のように感じているところの主に言葉を用いて思考する“意識”と呼ばれる脳の働きは、脳の活動全体からするとごく一部分に過ぎない。最近、世の中では「解像度」「言語化」といったワードが飛び交っている。確かに、サイエンスは言語の力により世界の解像度を向上させてきた。ただそれは、人類が何世代にも渡って知識を引き継いでコツコツと積み上げてきた財産であるということを忘れてはいけない。その辺の多少弁の立つ一個人が言葉に出来ることなどたかが知れている。シャカリキに何かを「言語化」することよりも、言葉になっていないものが膨大にあることにきちんと意識を向けておくことのほうが大事だろう。
自分自身の機能を向上させていこうと考えた場合、必要なことは、有益なソフトウエアをいかに無意識的なサブプロセスにインストールするかということである。直接的な身体の機能向上を伴わない所謂“知的”な機能向上を目指すうえで、読書みたいなものは有用だ。ただそこで行われているのは、内容の暗記みたいなことではなく、誰かが開発した思考プロセスをなぞり、観察することによって、自分の中に新たな思考パターンを付け加えることなんじゃないかと思う。本の内容をそっくりそのまま喋れることや要約できることが、何かを理解したことのように思われがちであるが、重要なのは内容を把握していることよりも、その一連の経験を通じて、どういう新たな情報処理プロセスが自分の中に生まれたかということと、それが現実の問題解決に役に立つかどうか、ということだろう。読書やライティングは間違いなく言語能力を向上させるが、それ以上に多くのものを物語や思考に触れることから我々は学んでいるように思う。
言語を扱う能力は、JPYをマイニングする上では非常に役に立つ。自分も作文能力が平均より高いというだけで、まあまあの評価を受けているわけなので、それは紛れもない事実であろうと思う。ただ、ライフハック的にそれを利用するのは構わないと思うが、何かをうまいこと言えることと、クリエイティブに問題解決が出来ることとは、近いようでまた別の事であるように思う。言語能力は、どちらかというとコミュニケーションに必要な能力であって、直感や予感を含む思考力の全体ではない。
“自分”というものを認識する際に、我々はどうにも言語による思考のようなものを重視しがちだ。ただ、誰もが経験するように、重要なインスピレーションみたいなものが、どこから出て来たのかよくわからないケースは多々ある。直感で判断したことが後々正しかった、みたいなこともある。自分の認識できていない自分の能力の存在を意識し、それを研ぎ澄ましていくこと。そして、それを信じること。これは、一見自分のコントロールを手放すことのようにも感じられる。しかし、自分が認識する自分自身が自分の総体から一歩引いた立場であると考えてみることから得られることは多々あるように思う。
世界は地球を中心としてはできていない。ガリレオの破門が解かれたのは1992年。死後350年後の事である。世界の中心を動かすことは容易ではない。サイエンスというものは、そういった一歩一歩の積み重ねなのだろう。しかし、そうした歩みが後世に様々な恩恵をもたらしてきた。そんな歴史を考えると、21世紀に自分は自分の中心ではなかったことが明らかになっても(*1)不思議ではない。新たな知見により世界のありようが変わってしまったとしたら、その中でまたライフハックを考えて自分の限界に挑戦していけばいいだけの話だ。
*1 本書によると広大な内面世界の存在が示唆されてきた歴史は古い。遅くともライプニッツは1700年代に心にはアクセス出来ない部分がある旨を指摘している。