『グレート・ギャツビー』は現代にも通じる1920年代アメリカの空気を醸す
■ 意外と読んだことない『グレート・ギャツビー』
『グレート・ギャツビー』というのは要するに『華麗なるギャツビー』である。自分は『華麗なる~』のタイトルで記憶していたので、どうせカネ持ちのボンボンが、なんかカネ持ちの美女とよろしくやったあげく、ちょっとフラれたりしておちこんだりもしたけれど、私はげんきです、といった類の、せいぜい古いだけが取り柄の大したことない青春物語だろうと完全にタカをくくって、今の今までずっと読まず嫌いをしていた。こういう間違いを犯すのは自分だけではないだろう。そう願っている。
自分の妙な思い込みはさておき、現実には、同作品は、アメリカ文学史に残る傑作のひとつに数えられている。しかも、ちょいちょい他の作品でも引き合いに出されたりするので、後世の作品を鑑賞するうえでも重要な作品だったりするのである。無意味に読まず嫌いをしてきたが、ここへきて、さすがに最近、いったいぜんたい、本当はどういう作品なんだろうと気になってきた。
名前は当然知っているような有名作品で、なんならあらすじもほとんど知っていたりするのだが、実は読んだことが無い・・・趣味は読書などといっておきながら・・・そんな作品が誰しも多少はあるだろう。自分には死ぬほどいっぱいある。
いい加減そういったものも読んでいくことにしよう。時代を超えて残るものが、そんなくだらない作品なわけないじゃないか。常識的に考えて。
そんなことを思って、野崎孝氏が訳した新潮文庫版を読んでみた。
■ 狂騒の1920年代アメリカ
『The Great Gatsby』が出版されたのは1925年。気がつけばもう100年前の話になろうとしている。1920年代のアメリカと言えばなにを思い浮かべるだろうか。人によって様々な事が思い浮かぶだろう。それぐらい、多くのものが生まれた時期だ。
第一次世界大戦終結後、消耗したヨーロッパに変わって、アメリカは世界の工場として圧倒的な繁栄を遂げる。経済はもちろん、現代につながる芸術、文化、そういったものが大量に生み出され、発展した。後に「狂騒の20年代」と呼ばれる時代である。アメリカがもの凄く盛り上がって元気な時代だった。物語の舞台であるNYは発展に発展を重ね、世界の首都へと向かわんとする、そんな状況であった。
このころ、スポーツ、ジャズ、ダンス、モダンなファッション、そしてトーキーの誕生、などといったように様々な文化が花開いた。後のディズニー社が設立されたのも1920年代だ。また、禁酒法(1920-1933年)もこのころである。シカゴでアル・カポネが名を成し、1925年26歳にしてギャング組織のトップに立った。1927年には、チャールズ・リンドバーグが大西洋単独横断飛行を成功させ、ベーブ・ルースが60本のホームランを放つなど、歴史に残る偉業のようなものが様々な分野で成し遂げられた。T型フォードが年間205万台と生産のピークに達したのもこの時代だ。(間もなく性能不足によりブームが終わるが)
最終的に、1929年の「ウォール街大暴落」からの世界大恐慌により、この狂騒の時代にも幕が降ろされる。この終焉のタイミングで、エンパイア・ステート・ビルや、クライスラービルといった、そびえたつ資本主義みたいなランドマークが完成したのはやや皮肉である。ともかく、このおよそ10年の間に、アーバンな享楽的文化が異様に発達し、消費社会化が加速すると同時に、金融システムが時に投機的に熱狂するまでに発達するなど、現代の社会システムみたいなものに通じる道具がひと通り揃ったような、そんな感じがする時代であった。
ちなみに、ずいぶん前に、この辺の時代のことをまとめた、『アメリカを変えた夏1927年』というぶっとい本を買って、ずっと手元に置いてあるのだが、まだほとんど読めていない。いつか読もう。色んな変化が起こり、新しいものが生まれる瞬間の物語が面白くないハズがない。
■ 絢爛たる栄華に生きた者たち
さて、作品は、第一次世界大戦より復員した、ニック・キャラウェイの目を借りて語られる。ニックは三代にわたって中西部で裕福な暮らしを営んできた名家の子息である。たぶん、溌溂とした都会に惹かれたかなんかで、NYはロングアイランドへやってきた。現在のロングアイランドは、マンハッタンまで車で1時間程度、世界有数の高級住宅地である。フィッツジェラルドもロングアイランドのグレートネックに住んでいたらしく、当時の邸宅がまだ残されているという話だ。
見る限り、明らかに金持ち感のある邸宅だが、当時フィッツジェラルドは、社交界での華やかな生活を維持するまでの十分な収入が無く、生活費のために短編を書きまくり、小説の映画化権を売ったりもしていたらしい。しかし、常に金銭トラブルに悩まされていたという。
作品のニックは、その他の登場人物の邸宅と比べるとちっぽけな、あまり雑草の手入れもしていない家に住んでいることになっている。とはいえ、まあそこそこゆとりのある生活をしていると言っていいだろう。ちなみに、証券会社で債券を売ったりしている。
このニック・キャラウェイの家の隣にあるやたらリッチな大豪邸に住んでいるのがギャツビー。要するに最近で言うとディカプリオだ。こいつは、毎週のように、趣旨のよくわからない死ぬほど豪華なパーティーを催したりしていて、昨今評判の人物だ。しかし、「酒を密売して儲けている」(禁酒法時代である)などと、カネの出どころに関して良からぬ噂を立てられているばかりか、「人を殺した事のある顔をしている」などと、羨望と嫉妬が入り混じったようなあることないことが常に噂されている。つまり、あまり「いいとこの出」ではない、ということがうかがえる設定だ。まあ、ディカプリオだから仕方ない。完全に『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2013)のイメージだが、顔がディカプリオならおおかた成りあがり者だと思って間違いないだろう。ちなみに、彼が出演した『華麗なるギャツビー』も2013年の公開である。なお、ニック・キャラウェイは、ピーター・パーカー(トビー・マグワイア)だ。
物語は、ニックが大学時代の知人であるトム・ブキャナンを訪問するあたりから始まる。こいつは、一応友達らしいのだが、基本的に高慢で鼻持ちならない金持ち野郎だ。その妻が、ニックのまたいとこのデイズィ。たぶん簡単に言うとデイジーだろう。このブキャナン夫妻は有閑階級の相当な金持ちで、しかもろくでもない。成り上がりではなく、昔から家が金持ちタイプのガチ勢だ。
登場人物と道具を並べると、成り上がりのカネ持ちが、カネ持ちの美女とよろしくやったあげく、ちょっとフラれたりしておちこんだりする類の物語に見えて仕方ないのだが、実はそういう話ではない(7割ぐらいは合ってるような気もしないでもないが)。登場そうそうに、浮気が公然に噂されていることが明らかになるナイスなろくでなしGUYトムと、意志があるんだか無いんだか分からないが案外打算的でしたたかな女デイジー、そして、うさん臭い成りあがり者のギャツビー。この座組で事件が起こらないわけがない。最終的には、ロクでなしGUYトムの浮気が火種となった一連の事件により、物語は悲しい結末を迎える。
富や名声に魅せられて毎週ギャツビー邸に集まっていたような人達は、トラブルが起こると、潮が引くようにいなくなってしまう。現代でも、調子の良い、今をときめく人間の周りに人が群がったかと思えば、人気の陰りと共に一斉に姿を消すという事はよく見られることだろう。そして、ブキャナン夫妻のような生粋の金持ちたちは、貧乏な誰かの生活をめちゃくちゃにしてしまったとしても、貴族よろしく、自分たちには関係ないとばかりにふるまい、自らの優越性や正当性を疑ってみもしない。そんな上級国民めいた精神性を見せつける。
もちろん、現実世界にはいい人もいるわけで、誰もがみなそんな感じだったとまでいうわけではないのだろうが、自らが狂騒の時代を象徴する存在としてNYの社交界に身を置いていたフィッツジェラルドは、乱痴気騒ぎに興じる人々の中にそういう姿を見たのだろう。
何なら借金とかで苦労までしながら社交界に身を置いていたフィッツジェラルドが、こういう華やかな世界のどこかしら空虚な面を描いて見せたというところが面白い。巻末の解説に、当時の狂騒のまさに渦中にあったフィッツジェラルド自身が後年語った話が紹介されている。いわく、いつの間にか自らがニューヨークっぽさを体現する理想像のような扱いを受けていて、当惑していた、とのことである。結局彼は、その期待に応える生き方を選択したのだが。
こうした、一方でド派手でリッチな生活に興じている自分と、他方それをどこかクールにみている自分という、2つの視点。こうした視点を持ち得たことが、作品に陰影を加え、本作が、単なる恵まれた人間のペラい青春ストーリー、みたいなものと一線を画し、長年読み継がれる傑作となり得た理由のひとつだろう。
しかし、こうしたエスタブリッシュな空虚さみたいなものを感じていたまさにそのころ、フィッツジェラルドはまさに全盛期にあり、それこそギャッツビー邸のパーティーのような生活を自ら実践していたさなかであったという。絢爛な生活の陰の部分を描き出す感性を持ち合わせた人間であっても、繁栄する都市の持つ得体のしれない魅力、エネルギー、時代の熱狂には抗えなかったのだろうか。そう考えると、どこか空恐ろしさすら覚える。
フィッツジェラルドが感じ、描いたものは、当時、熱狂の中にいた、必ずしも鋭敏な感性を持ち合わせていたわけではない多くの人たちにどう受け止められたのだろうか。この本が出版された当初は、T・S・エリオット等のPROからは好評価が得られたものの、肝心の売上は今一つで、本格的に評価されだしたのはフィッツジェラルドの死(1940年)後10年以上経ってからだったらしい。
■ 繁栄する都市の過酷な砂嵐
かつて、岡野玲子は、田舎の寺の出のシティボーイによる都会生活と修行寺での生活を描いた漫画『ファンシィダンス』の中で、東京という都会をこう描いて見せた。
『ファンシィダンス』で描かれる若者たちは、狂騒のニューヨーカーほどには過剰な浪費をしたりはしないものの、日々クラブへ通い、オシャレな仲間と付き合い、意味のないハッピートークをし、いかにも都会的な日常を楽しく暮らしている。連載時期は1984年から1990年。おりしもバブル崩壊の直前だ。ちなみに名作である。
なにかとしがらみの多い田舎との比較において、都会には自由があると言われる。田舎には古い規範めいたものが根強く生き残り、狭いコミュニティの中で悪く言えば相互監視のような事が行われている。そんな風に評される事が多い。しかし、多くの人に実感としてある通り、都会は自由な場所であるいっぽうで、どこか消耗する場所でもある。
一度は活気あるニューヨークが好きになったニック。しかし、彼は最終的に故郷へ帰ることを選択する。ニックは、故郷の世界を四六時中せんさくの目を浴びねばならない間延びした退屈な町(じつに田舎だ)、のように表現し、それに比べてNYの都会ははるかにマシと評価していた。しかし、その時でさえ、東部はどこかしらいびつな要素を持っている気がしていたという。
フィッツジェラルドは、そうした都会のいびつさを感じ、作品には反映させるいっぽうで、自らは結局都会の砂嵐の中で抗うのをやめる生き方を選んだ。故郷へ帰るニックは、フィッツジェラルドが現実にはなし得なかった、可能性のひとつである。そんなふうに言う事もできるかもしれない。
こういった都会のムーブメントのような、誰もが知らず知らずのうちに乗せられてしまうものの正体はいったい何なのだろう。都会では自由に幸せと成功を追い求めて良い。それがいつの間にか「ねばならない」という都会的なふるまいの規範となってしまう。そんなことがあるような気がする。
さて、現代にも「成功者」と呼んで差し支えない人々がいる。インターネット的に言えば「インフルエンサー」みたいな人達だ。これらの人々は、伝統的な貴族というよりかは、成り上がり者、つまりギャツビー氏的であり、フィッツジェラルド的な存在である。こういった人達も、時代の寵児のように持ち上げられ、SNS上で常時催されるパーティーには何十万人もの人が集っている。しかしそのいっぽうで、「成功者」たちは、常にあることない事を噂され、いったん弱みを見せると一斉に攻撃される。
「成功者」の陰に、あまたのフォロワーがいる。そうしたフォロワーたちも、「成功者」もしくはそのおこぼれを目指して、小さな成功を競い合う。お互いに刺激し合い、お互いがお互いの要求を内面化し、SNSの住民としての「ふさわしいふるまい」を過激化させていく。
そうした、大衆が自然と作り上げる、時代の空気を捉え、まい進せよという圧力めいた規範。それが、都会の中で自分自身としてあり続けることの難しさの正体なのかも知れない。
そして、ひょっとすると、それも、狂騒の20年代に都市化が進む中で生み出され、現在へと受け継がれることとなった社会の仕組みのひとつなんじゃないか。そして、そういった現代に通じる人々の様子が見事に描かれているからこそ、『グレート・ギャッツビー』は不朽の名作となったのではないか、そんなことを思った。
自らの目的のために敢えて砂嵐を利用したギャツビー、いざとなればいつでも自らの強固なバックボーンへと撤退できるブキャナン夫妻、そして砂嵐に身を任せることが出来ず故郷へ帰ることを選んだニック、彼ら西部の人間たちは東部から去る。そのいずれにも当てはまらなかった人々・・・その他大勢として描かれる、名も知らぬ1920年代のニューヨークっぽい人達。そこに、全世界にまで張り巡らされ、どこからでもアクセスできるソーシャルネットワークの網の目により、退却すべき故郷すら時には見失ってしまう現代人の姿とどこかしら似たものを感じる。
ただ、昨今SNS断ちをすると総じて幸福になるとはよく言われることで、たいていのことは、逃げたければ本当はいつでも逃げられる。そのことさえ忘れなければ、ギャツビーのように純粋素朴な夢を信じて、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆき、陽だまりを探してみるのも良いのではないだろうか。