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信長の安土城の城代家老の蒲生氏郷の父、蒲生賢秀の家来の子が井上政重
会津の基礎をつくった蒲生氏郷(中略)氏郷は近江国蒲生郡の生まれで、秀吉に加担して小田原を滅ぼし、その功績によって会津藩四二万石を賜った。氏郷はそれまで黒川城と呼ばれていた城を、故郷の「若松」にちなんで「若松城」と改称し、それ以降幕末まで「会津若松城」の呼称が一般化した。その氏郷が信夫郡のうち五万石を木村吉清に与えたのが、福島藩の起こりである(中略)会津藩は戊辰戦争で政府軍に抵抗したため、「会津」という地名は採用されず、「福島」が県名にとなったという経緯がある。しかし「福島」も佳字を使ったに過ぎず、もともとは「フケ島」つまり「低湿地帯にある島」であったという説もある(中略)今考えてみると、なぜこの「福島」だけが「福島県」の県名を使ったのかが疑問になる。第一と第二の施設は隣同士であるにもかかわらず、町名が異なっていることに気づく。四つの町名をつけることができずに、結果として「福島」をつけたのであろうが、福島県としては甚だ迷惑な話である。「福島原発」が爆発を起こしたとすると、県全体が放射能で汚染されたというイメージを与えてしまう。これが風評被害の根元にあった。結果、「フクシマ」は「ヒロシマ」「ナガサキ」と並んですっかり有名な地名になってしまった。
ところでアポロ Apollo とアポロン Apollon は異なる。アポロはオリンポス12神のひとりでゼウスの子だ。太陽神ともされ、明るく輝く美男子の青年だ。それに対してアポロンは地獄の悪魔のひとりである。この区別はなかなか難しい。織田信長はどこから入手したのか、安土城の天守閣にこのアポロンの胸像を飾り、「これが私だ。拝め」と町人たちに拝観させた。このことに怒ったイエズス会の宣教師(神父)たちが、信長を京都の本能寺で爆殺した(中略)耶蘇教(会)はイエズス会のことで、キリスト教は天主教である。日本史学者たちは訂正しなければいけない
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1588年のアルマダ海戦の時、後方の輸送船団の中の一隻の船長をしていたのが、ウィリアム・アダムズ(※のち三浦安針)(中略)ハリケーンに巻き込まれて難破して大分に漂着(中略)このときリーフデ号(エラスムス号)に積んでいた、当時最高級のカノン砲20門を家康にすべて引き渡した。それが関ヶ原の戦いで4門が使われた(中略)これで西軍(豊臣方)の最精鋭部隊が1000人も殺されたら、もう勝てない。それで東軍の家康が勝った(中略)関ヶ原の戦いの14年後に、大坂冬の陣と翌年の夏の陣で、イギリス国王から家康(日本王)に贈られたさらに最新式のカルバリン砲(カノン砲=野戦砲の一種)が威力を発揮した(中略)この洋式大砲が2キロ飛んで、天守閣まで壊した(中略)このカルバリン砲は、エリザベス1世(1603年に死)のあとを継いだジェイムズ1世(温和な人)が、家康に贈ったものだ。ジェイムズ1世は1605年に、カトリック勢力に、イギリス議会の壇上で爆殺されかかった(未遂)(中略)これに怒ったジェイムズ1世は、ベトナム王やマラッカ王などの王たち、そして日本王である徳川家康に、「カトリックに気をつけよ」と新式大砲を贈ったのである。※引用者加筆.
関ヶ原でこの最新鋭の洋式大砲の部隊は本多忠勝の軍と共に、今度は北に向かって三成のいる笹尾山の方に移動(中略)ここから800メートル先の三成の笹尾山の本陣に撃ち込んだ(中略)当時の日本の戦国大名が持っている大砲などよりも4倍の距離を飛ぶ(中略)これで関ヶ原の平野の野戦で一気に決着をつけた家康(中略)石田三成の笹尾山の陣地も、この西洋大砲によって破壊された(中略)戦場は〝嚆矢〟という考えが支配する。古く源平の戦い(10世紀ぐらいから。武家が藤原氏の貴族たちの次の支配者となる)の頃から、合戦というのは、どっちの飛び道具が強くて相手の陣地まで先に届いたか、で決まった(中略)戦場では(待ち伏せ襲撃や夜襲を除くと)相手の陣地にまで先に放った矢が届いた方が勝ちなのである(中略)それを鏑矢(嚆矢)という。ものすごい剛弓を使える兵士を訓練して、この鏑矢を敵陣に射たせた。鏑矢には頭に風でビュービューという音が出る鏑という装置が付いていた。この鏑矢が、敵の大将の陣地にまで届いたら、急に戦意を失って自分の敗けを察知して一目散に撤退(退陣)が始まる(中略)「嚆矢(鏑矢)」とは、「ものごとの始め」という意味になった(中略)藤孝(幽斎)の嫁、細川ガラシャが洗礼を受けて「ガラシャ」と名乗ったのは、1587(天正15)年(24歳)だ。忠興と結婚して10年ぐらい経っている。秀吉が天下人の時だ。だがキリシタンになったのはもっと早いだろう。この年に秀吉のキリシタン禁令が発令されている。ということは、日本におけるキリスト教の布教の最高潮は、この1587年だ。30万人を超える信者がいたという。それから13年後の1600年7月に、「大坂城に入って自分の人質となれ」と命令を出した石田三成に逆らって、ガラシャは自害している(37歳)(中略)ガラシャが産んだ子供が忠利で、彼が1632年に初代熊本藩主(54万石)となった。名城、熊本城は猛将加藤清正が建てたもの(中略)秀吉なきあと(1598年9月死去)の内紛の中で反石田三成派の筆頭である。だから、そのあとは家康側に付いて大坂冬の陣(1614年)の頃は、名古屋城の築造とかしている(中略)だが清正は、1600年の関ヶ原合戦は参加していない。肥後(熊本)から動かなかった。これで家康が清正をずっと気に入らなかった。だから清正が死んだあとは、息子貞泰が上手に跡を継ぐことができなかった。だからワルの細川家が以後、代々熊本藩主を乗っ取って継いだ。同じくワル(策士、軍師)の黒田官兵衛(如水)とその息子の長政が北どなりの福岡藩主(筑前の国主)となった。同じく池田恒興と長男光政が長久手の戦(1584年)で戦死したので、光政が、備前岡山藩主となった(中略)本能寺の変の3ヶ月前の3月11日に、(※武田)勝頼を天目山で自刃させた。だから、信長は「家康よくやった。よくぞ武田を攻め滅ぼした」と大いに褒めて恩賞を与えたばっかりだ(中略)信長は本能寺で爆殺される一ヶ月前の五月に、安土城に多くの商人(町人)を呼んで、大理石(白目石)でできたアポロの胸像を、「これが私だ。私を拝め」と言った(中略)信長はキリスト教のバテレンたちの教義(理論)の虚偽と偽善も見抜いた(中略)故に、ヴァリニヤーノ、ルイス・フロイス、オルガンティーノたちイエズス会士のバテレン(パードレ)から、「この男(※信長)は我らが大敵マルチン・ルターと似ている」として邪魔な存在となった。だから計画的に殺された(中略)そして・・・・・やがて秀吉と家康は、ハッと気づいたのである。「自分も信長さまと同じ目に遭わされる」と。だから、この二人はバテレンとキリシタンたちをものすごい勢いで国外追放にし、やがて殺し始めた。そうしないと自分が同じ目に遭うという恐怖感で一杯になった。だからキリシタン弾圧を本気で始めたのだ(中略)茶屋四郎次郎は、家康に変を知らせるために堺に向かっていて、家康一行と合流したのである。大和郡山城主(奈良県)であった筒井順慶はキリシタン大名であるが、必ずしも高山右近たちと考えを同じくしていない。※引用者加筆.
ザビエルが来て(1549年)、戦国大名たちを洗脳していった(中略)信長と秀吉と家康という天下人。この3人以外はみんなキリシタン大名だった(中略)この3人を順番に殺していかないと日本は自分たちのものにできない。ローマ法王に献上できない。とザビエルや、ヴァリニャーノという男たちは思った(中略)1582年に信長が京都の本能寺に入った時に、その前の晩に、床下に仕掛けてあった黒色火薬。ほんの10年前に初めて作られたばかりだった新式の火薬を樽いっぱい詰め込んであった。信長はたった30人ぐらいの家来を連れていった。それでまだ真っ暗の朝の3時ごろボーンと爆殺(中略)本能寺からわずか100メートル(一町)離れた隣にサンタマリア聖堂という南蛮寺があった。そこにバテレン(ジェズイット・プリースト・イエズス会士)たちがいた(中略)明智光秀はじつは信長爆殺のその後に、現場に来た
関ヶ原の合戦の半年前、1600年の3月16日(西暦では4月29日) に、豊後水道 (今の大分県)にオランダ東インド会社所有のリーフデ号(※オランダ籍)が流れ着いた(中略)寺沢(※長崎奉行の寺沢広高/肥前唐津藩主)は乗組員全員を拘束してリーフデ号に積まれていた大砲、鉄砲、弾薬などの武器とその他の積荷を没収した。そして、大阪城で実務を握っていた徳川家康に指図を仰いだ。このときイエズス会(※カトリック)の宣教師たちは、「このオランダ船(※プロテスタント)は悪魔の国から来た者たちであるから、すべてすぐに処刑するように」と要求した。しかし、徳川家康の指図で彼ら乗組員全員を船で大阪に送らせて、リーフデ号も廻航させた。ここに(※プロテスタントの)ウイリアム・アダムズ (イギリス人) とヤン・ヨーステン (オランダ人) が乗っていた(中略)オランダ東インド会社が所有する商船隊(武装もしている)が太平洋を横断する航路を開拓しようとしてジャワのバタビア(今のインドネシア)を目指していた。それがハリケーンに遭って難破(中略)アダムズ (1564年生まれ。この時、36歳。家康より20歳年下) は、オランダ東インド会社 (国策会社)に雇われていた(中略)(※W・アダムズは日本に漂着する12年前の1588年に)イギリス軍側の船団 (司令官は海賊あがりのキャプテン・ドレイク)の補給船の一隻の船長をしていた。このとき、スペイン艦隊を打ち破った女王エリザベス一世 (1533〜1603。当時55歳 )は、イギリスの世界覇権の基礎を作った。それでもこのあと150年間は、まだまだスペイン帝国 (とローマ・カトリック教会)が世界覇権を握っていた(中略)このウイリアム・アダムズが、リーフデ号に搭載されていた当時の世界最新鋭の大砲を、家康にもたらした(中略)1588年に天下無敵とされたスペイン艦隊と互角で戦った、当時のイギリス・オランダの最新鋭の大砲を、徳川家康はこの時、関ヶ原で使ったのだ。そして戦いに勝利した。このときのウイリアム・アダムズの功績に対して、家康は三浦半島(横須賀)と伊豆半島(伊東)に領地を与えた。W・アダムズ(三浦按針)とヤン・ヨーステン(耶揚子)を家康はずっと大事にした(中略)家康が、ローマ・カトリック教会(イエズス会)とスペイン帝国を警戒して、秀吉に続いていよいよ、キリシタン禁教と弾圧を強めていったのは、このようにして世界基準の知識と情報を手に入れたからである。それでも、 1637年の島原の乱のあとは完全に国を閉じた(中略)(※プロテスタントの) オランダ、中国とだけ厳しく制限した貿易を行った(中略)大きな破壊力を持つ西洋式大砲が1600年9月に関ヶ原で使われた。このことを他の大名たちは知った。だから以後は徳川家康に逆らう者はいなくなった。あとは爆薬の原料のチリ硝石も家康が独占した。家康は、このあと15年かけて大阪夏の陣(1615年5月)で豊臣氏を滅ぼした(中略)信長殺しの真実の実行犯はバテレン(イエズス会士)たちである。明智光秀ではない。明智ごときに、日本一恐ろしい信長を殺せるわけがないのだ。だが、ローマ・カトリック教会の伴天連(パードレ、ファーザー、神父)たちなら世界基準(World values)で働いた白人たちだから信長を殺せた。光秀は、そのワキ役 (犯罪の補助者)であったに過ぎない。そして、その直後に光秀は真犯人に仕立て上げられ、「変 (6月2日)」から11日後の山崎の合戦(6月13日)で口封じで殺されたのだ。「変」の時、最大の奸計者、策略者は、バテレンたち(イエズス会士)であるが、日本人側の協力者は当然キリシタン大名たちである。たくさんいた(中略)「信長さえ殺せば (亡き者にすれば) 、日本は自分たちのものになる(ローマ法王に献上できる)」という計画の実行である(中略)キリスト教は「天主教」と訳すべきであって、耶蘇教(会)は、その中の一派であるイエズス会(jesuitあるいはThe society of Jesus)の日本語訳である。日本の教科書も間違っている。ローマキリスト教会は天主教である。耶蘇教ではない。「天守閣 」も間違いで、「天主閣」である(中略)黒坊主の彌助の暗躍と連動する、イエズス会のバテレンたちの恐るべき活動である。光秀は、自分はバテレンたち (「インドのパードレの聖堂」=南蛮寺が本部)の命令に従って行動し、信長殺し(爆殺である)のあとの後片付けの仕事を実行しただけだった。それなのに、バテレンたちは自分を見捨てるどころか、自分をこの暗殺計画の主犯に仕立てて、光秀は口封じされることになったのだ(中略)信長は、イエズス会士たちから、多くの真理を聞きだした。そして当然のことながら、イエズス会の反動的で復古的な信仰理論を疑った。信長がしつこくオルガンティーノたちに質問を繰り返したものだから困り果てたバテレンたちは「もう生かしてはおかない」という決断をした。このことは、変(信長殺し)から18年後である1600年4月に、家康が大阪城で、大分県に漂着してきたウィリアム・アダムス(イギリス人、プロテスタント)を引見して、いろいろと聞きだした。そして知ってしまった、当時のヨーロッパ世界の大きな真実へと連続してゆく。イギリス人、オランダ人は、「私たちヨーロッパの新教徒 (プロテスタント)は貿易(商売)の利益しか求めません。この国を、キリスト教(天主教)で支配しようという考えは、持っていません」と言ったことを家康は信じた。そして、この考えを受け入れて、最後に三代将軍家光の時に、新教徒(プロテスタント)の国であるオランダとだけ、出島に限定して交易することに決めた(1664年)───副島隆彦氏(著書名失念)※引用者加筆.
スペインの深謀を家康に忠告したのはプロテスタントのオランダ商人(オランダ東インド会社)であった。そこに雇われていたのがイギリス人航海士のウィリアム・アダムス(三浦按針)である。オランダ商人の実体は、長く迫害されてきた歴史を持つユダヤ人だった。オランダのユダヤ人はスペインの1492年の迫害(ディアスポラ、大離散)でスペインからアムステルダムに移った「ユダヤ500家族」と呼ばれる人々だ。ゆえに日本の鎖国は正しい(中略)こうして長崎だけが海外通商の窓口となった(中略)徳川秀忠(二代)家光(三代)の治世で日本は鎖国体制を固め、オランダ船以外の海外商戦の来航を拒絶した。学校で教えられる日本史ではそういうことになっている。しかし、諸藩は幕府に隠れて密貿易を続けていた。
三代将軍・家光時代に相次いで出された一連の鎖国令による統制の中で、日本には次々と重大な変化が起こった。第一次鎖国令が出された一六三三年、日本のイエズス会の中心となって日本管区の管区長代理を務めていたポルトガル人宣教師クリストヴァン・フェレイラが長崎で捕縛され、同年(寛永一〇年九月一九日)、長崎で穴吊りの刑に処された遣欧使節団の中浦ジュリアン神父が、「われこそはローマに使いしたるジュリアンなるぞ」と絶叫して息絶えたのがこの時であった。この時に捕らえられたキリシタンがすべて殉教した中で、ただ一人、フェレイラだけが拷問に耐え切れず五時間後に棄教した。遠藤周作の小説『沈黙』のモデルとなって知られる彼は、日本名・沢野忠庵(沢野忠安)を名乗って日本に帰化し、曹洞宗に改宗した。日本人妻を娶った忠庵は、ほかの棄教した聖職者、世に「転び伴天連」と呼ばれ、裏切り者として蔑まれた人たちと共にキリシタン弾圧に協力し、取り締まりに当たった(中略)フェレイラはポルトガル系イエズス会で南蛮医学を学んでいたので、ただの「転び」ではなかった。
彼(※フランシスコ・ザビエル、あるいはシャビエル)はスペイン人(カタルニャ人)で、イエズス会(Jesuitジェズーイット)という鉄の規律を持つ修道士会の、創設メンバーの重要人物(中略)彼が日本(鹿児島)に上陸したとき、彼は、日本をこの時期以降、「神の国にする」、すなわち、「ローマン・カトリックの教皇(法王)に献上する」という重要な役目を持っていたのである。何と、日本という国は、ローマ教会に献上された国だったのである。その献上の文言がローマのヴァチカン(法王庁。教皇庁)に今でも残っている(中略)徳川家康の息子の一人や、なんと有力大名の伊達政宗までキリシタンであった(中略)(※徳川家康は)ウイリアム・アダムズ(三浦按針)からイエズス会と覇権国スペインによる日本征服計画を知らされた。オランダ国王(本当はシュターツホルダー国家総督)ウィレム三世からの新書による忠告に従う形で、イエズス会を始めとするフランシスコ会やドミニコ会など全てのカトリック教団を排斥する形で鎖国を行った。一番激しかったキリシタン弾圧の最高潮は、一六二二年(元和八)年の五五名のキリシタンの処刑である。この「元和の大殉教」の絵は今も残っている。ルイス・フロイスの「日本史」の記述には、イエズス会が信長暗殺の真の黒幕であったことの証拠 ※引用者加筆.
近代の奴隷制は、東インド会社の設立にその起源を求めることができます(中略)現在ではカトリックといえば博愛主義の代名詞で、バチカンは世界の戦争や差別をなくす中心的な役割を果たす機関となっています。ところが中世の頃(※後の1600年頃含む)のバチカンはそうではなかったのです(中略)当時のバチカンの判断によって、奴隷制が始まったと言われています(中略)東インド会社が行った最大の交易は、人身売買ですが、その背景にはキリスト教徒でない者は人間ではなく奴隷であるという判断があった(中略)戦国時代、日本は海外から鉄砲の調達を始めました(中略)織田信長がその近代兵器を駆使して勝利を収めたことは有名ですが、そのためには高性能の火薬、つまりガンパウダーが必要になります(中略) 当時のガンパウダーの値段はどのようにつけられたかというと、1樽につき、娘50人です。織田信長の時代から戊辰戦争の時代まで、鉄砲隊のガンパウダーは、日本人の若い女性を海外に売ることで調達(中略)東インド会社が行った最大の取引品目は、奴隷貿易(中略)宗教と侵略はワンセットのパッケージである、とされる理由がこれ(中略)東インド会社の時代には、宗教の権威は現代よりも強く、人々はそれを畏怖していました───苫米地英人博士(著書名失念)※引用者加筆.
明智本は、最後の一手詰めをしない。信長殺し「本能寺の変」の最後の歴史の真実を、解明しない。日本国民にとっての巨大な敵(真犯人たち)を取り逃がしている。信長を殺したのは、ローマ・カトリック教会の司祭(宣教師)たちである、イエズス会のバテレン(パードレ、神父)たちだったのだ。光秀や細川藤孝は、その補助者(従犯)であるに過ぎない(中略)「変」の前年の2月に、あの「天正四少年遣欧使節」を引き連れてヴァリ二ヤーノは京都で信長に謁見している。この「遣欧使節」とは、ローマ法王(グレゴリオ13世)へ謁見するための使節だ。日本をローマ法王に献上することの正式の儀式でもある。この4少年は、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マチルノ、中浦ジュリアンで各々、大友宗麟、大村純忠、大村領の名士・原純一と中浦純吉の4人のキリシタン大名の息子(養子)という形にして連れてゆかれた(中略)そして8年後の1590年に帰って来た。この時もヴァリ二ヤーノが連れて帰って来た。しかし、その時には、もう日本側の雰囲気が大きく変わっていた。ヴァリ二ヤーノが得意になって使節4少年を連れて帰った時には、秀吉によって「バテレン追放令とキリシタン禁教令」(1587年6月)が出されていた。最高権力者になった秀吉自身が決定したものだ。それでも秀吉は、ヴァリニヤーノと4少年を聚楽第に迎えて、ここで彼らが西洋音楽(西洋楽器)を奏でるのを見ている。しかし、秀吉は信長殺しの真実の全体図を、この8年間の間に徐々に知った。だから、どんどん不快になったはずだ(中略)このヴァリニヤーノが全体の指揮官であり、「変」の命令者であると秀吉は勘付いた。秀吉は、ヴァリニヤーノを睨み付けたはずだ。秀吉は、南蛮貿易をすることの巨利を知っていた。だから貿易だけは続けたかった。ところが、貿易船に宣教師たちがまだまだ潜り込んで入国して来た。遂には秀吉は怒って、1591年からバテレン、キリシタンの国外追放令どころか弾圧を始めた。キリシタンを捕らえて処刑することが始まったのは、1594年(文禄3)年からだ(中略)1598年に秀吉が死んだあとは、家康がキリシタン弾圧を強化する(中略)この激しいキリシタン弾圧は「島原の乱」(1637、8年)まで続く。
織田信長殺しのキリシタンネットワーク(中略)時が過ぎ、徳川の世となってから、家康は光秀を見捨てたキリシタン大名の高山右近を国外に追放(中略)明智光秀は生き延びて、家康の庇護の元、天海僧正に成り代わった(中略)(光秀)とその大姪のお福(春日局)は、自分たちは熱心なキリシタンであったのに、イエズス会(ローマ・カトリック教会)からひどい利用(身代わり)をされたことで、烈しい怒りと敵意を抱き、その動向には警戒心を解かなかった。これが徳川300年でのキリシタン禁教(鎖国政策)の原動力(※信長の安土城の城代家老の蒲生氏郷の父、蒲生賢秀の家来の子が井上政重←信長の娘婿の父の家来の子)(中略)(※家康に対キリスト勢力のスパイとして育てられた忍者の)井上政重は切支丹屋敷に国内の優秀な子供、人材を密かに連れてきて、キアラや壽庵から学ばせた(中略)その中で特に秀でていたのが磯村義徳と関孝和(中略)切支丹屋敷の存在は一切秘密とされ、ここで学んだ者たちは一生涯、キアラや宣教師との関係は口外しなかった(中略)キリシタンと深く関わっていた関孝和と建部賢弘の存在は幕府もできるだけ隠しておきたかった(中略)建部は吉宗の側用人、お庭番という伊賀忍者の総責任者である(中略)井上政重の後継として活躍したのが、儒者の新井白石(中略)新井白石が、井上政重の残した切支丹屋敷と深く関わっていたことは、あまり知られていない(※この流れに箕作家)。※引用者加筆.
本能寺の変の当日、バテレンのカリヨンたちが事件の様子を南蛮寺の高楼(タワー)から観察していた。このことは、ルイス・フロイスの『1582年日本年報追加』にはっきりと書かれている。ルイス・フロイス自身は、本当のインテリ(知識人)で真面目な学者肌だから、この危険な計画犯罪には加わらず、さっさと京都を離れて豊後府内(大分市)に移っている(中略)そこで「カリヨンたちから送られてきた手紙からゴアの本部宛に報告書を書いて残した」と明智本ではなっている。だが本当は、彌助本人が府内にやって来てフロイスに直接、語ったのだ。「信長の最後の言葉」を彌助が聞いたとして、次のように書いている(中略)「信長は口に指を当てて、『余は自ら死を招いたな』と言った」と書いてある。これが、信長が死ぬ直前のコトバだそうだ(中略)そうすると、誰が一体この信長の最後の言葉を聞いたのか。だから彌助が創作したのだ(中略)「余は自らの死を招いた」という言い方は日本人的ではない。私たちの日本語では、こういう言い方はしない。これは西洋文(ポルトガル語で書かれている)である。明智本では185ページに、「妙覚寺というすぐ近くの寺にいた長男信忠への伝令を信長が彌助に命じたのであろう」としている。そんなことができるはずがない。不自然きわまりない(中略)彌助は前述したとおり1年4ヶ月前から信長のお供廻衆の小姓の中に入っている(中略)後年フロイスが書いた『日本史』の中で、天正9(1581)年4月の書簡や『1582年日本年報追加』の記事に(フロイス)自らが書いた彌助についての記述が一切削られている(中略)本能寺の変に関する記述については『1582年日本年報追加』の記事を踏襲し、むしろ記述を膨らませて書いている。ところが、彌助についての記述だけはそっくり削除されている(中略)「彌助についての記述は一切削られている」事実は重要である。だから、信長と信忠(※信忠たちは5百名くらいいた)の爆殺を実行したのは彌助と同僚のバテレンたちだ。ここまで真犯人を追い詰めておきながら彌助とオルガンティーノ、カリオンたちが信長殺しの実行犯だ、と明智憲三郎氏が書こうとしないことが、かえっておかしい。歴史好きの人が、明智本を読んで、真にびっくりしたのは、これらの状況証拠の文献による提示の数々だけなのに。※引用者加筆.
家光の生母が春日局であるという事実(中略)春日局は、明智光秀の重臣(血縁もある)斎藤(内蔵之助)利三の三女である(中略)この福(春日局)は三代将軍家光の乳母(養育係)として雇われたのではなくて家光の生母である。その証拠は『東照宮様御文』という文書である(中略)お福は、乳母(乳人)として、わざわざ稲葉正成という武士と離婚させてから江戸城に迎え入れられた(中略)このことを自ら望んで指図、司令したのは、天海と名乗った明智光秀であろう。家光の「光」の字は、光秀(天海)から、偏諱と言って一字与えた(もらった)ものである(明智本P298)(中略)光秀(天海)、お福(春日局)の系統が、江戸城の中で以後100年間ずっと権力を握っている。4代家綱どころか、5代綱吉を将軍にした時(1680年)にまで、光秀とお福の意思が強く働いている。この二人がキングメイカーであることはその後の江戸幕府の幕閣たちのことを調べたら分かった(中略)のちの大老堀田正俊は、2歳のときに家光の命令でお福(春日局)の養子となった人物だ。4代家綱の小姓となり、綱吉を館林から連れて来て次の将軍にした(中略)(※京都の天皇が日本国の元首で徳川氏は権力の簒奪者であるという水戸学、水戸藩の思想)尊皇勢力をうち破って、綱吉を継嗣にした力は、大老堀田正俊が、2歳の時から、そのように行動すべく春日局に育てられていたことの結果だ、ということを示している(中略)光秀、お福恐るべし、ということになる。※引用者加筆.
戦国時代の宣教師たちが書いた日本に関する報告書は海外に散逸しており、その収集作業が進められているが、同時に隠蔽の圧力も加わっているため、各国の政治的背景を理解した上で行間を読む能力が求められる。
関連リンク↓
https://note.com/wandering_1234/n/n8b9c1d8a9e84
https://note.com/wandering_1234/n/n2189aef622f0