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諭吉が最も愛したアメリカ人のフリーメイソン、ベンジャミンフランクリン

呪縛から自由になるための最後の手段は、あえて過去に戻り、過去を新しく解釈することで、新しい過去を作り出してしまう「バック・トゥ・ザ・フューチャー」法である。これは理にかなった戦法である。なぜなら、過去は変えることができないが、昔のできごとやその意味を、いまの活動に照らし、どう解釈するかはまったく自由だからである。できごとをどう解釈するかは、リーダー的立場の人の大切な役割である。

一八五九年に進化論を唱えたチャールズ・ダーウィン(Charles Darwin 一八〇九〜一八八二年)の両親はユニタリアンである(中略)諭吉が最も愛したアメリカ人のフリーメイソン、ベンジャミンフランクリン(中略)諭吉の幕末維新の行動を見る限り、彼はフランクリンのフリーメイソンの生き方を共有していた(中略)諭吉は全生涯にわたってフランクリンをモデルにして活動した(中略)フリーメイソンとなったフランクリンは科学の分野でも活躍の場を広げた(中略)「稲妻は電流である」を証明したのは、四六歳となった翌五二年である。彼は凧を使った実験で、その事実を証明した。この実験の様子は、一九八五年の『バック・トゥ・ザ・フューチャー(Back to the Future)』で描かれた、タイムトラベルのために稲妻による電気を捕らえるシーンを見れば、想像できる

信じられない、と正直に言った人たちをユニテリアンといいます(中略)ユニテリアンはレヴェレイション(revelation 神の啓示)が大嫌い(中略)啓示を認めなければサクラメントはない(中略)ユニテリアン的な思考は、人間の側から完全なるものに到達することができるということ(中略)ユニテリアンの問題は何かといったら、啓示を認めないということ(中略)それを抑えるためにさまざまな啓示宗教があるのかもしれません(中略)神学者というのは最終的に人がどうしたら救われるか、ということしか関心がない(中略)キリストというのは、人間のヌース(知性)を持たずに、その部分は神のロゴスだったのだという理屈を立てた。キリスト教ではロゴスの起源は人間には内在していないのです。外から来る。(中略)しかしそのロゴスというものは、やはりわれわれに内在している(※内在のロゴス発展させていくのがユニテリアンの基礎)(中略)はじめのロゴスは、言葉(中略)ユニテリアンの時代になると、ロゴス(理論、理屈)になっていった(中略)ヨーロッパで、ユニテリアンからカール・マルクスたちの思想が生まれたのだ。カール・マルクスの思想はまさしくユニテリアン(理神論、deism)の系統(中略)指導者たちは、ユニテリアンと表裏でありフリーメイソンの会館を貸してもらって集会を開いている(中略)理神論(神を疑う。ユニテリアン)の段階を経ないと、無神論(atheism、唯物論、マテリアリズム)の思想に行き着けない(中略)福澤(※諭吉)が死んで、同じ年にヴィクトリア女王が死んでいます。このときヨーロッパで、フリーメイソンに何か大きな変動があって、どうも組織全体が悪の集団に乗っ取られたようだ。それまではフリーメイソンはまじめで立派な人々の集まりだった(中略)日本でユニテリアンだ、という立場がはっきりしているのが、(※新島襄の跡を継いで同志社大学の学長になるはずだった)金森通倫(1857ー1945)です。新神学と本人は言っていました。金森通倫のひ孫が、今の石破茂さん ※引用者加筆.

〔ユニタリアンは、三位一体 (父と子と精霊) の教理を否定し、神の唯一性を強調する宗派の総称。一般に平等を重視するリベラルとされている(中略)リバタリアンは、市場や人民を、王や聖職者のくびきから解放するために戦った一八〜一九世紀の啓蒙主義改革者の系譜を継いでいる。

重要なことは、ユニテリアンもフリーメイソンも、その信仰に 〝理性〟を置いていること(中略)理性信仰、理性崇拝のことを、少しだけ難しい言葉に言い替えると、〝理神論(deism デイズム)〟という。この理神論(デイズム)を、あと一歩、さらに突き詰めると、なんと、「神(God)の否定」である。無神論(atheis エイシイズム)になる。ユニテリアン、フリーメイソンたちこそが、この理神論の担い手なのだ。このデイズム Deism 理神論(神の存在の合理的な説明)から、Atheism(神の存在の否定である無神論)への発展、成長こそが、ヨーロッパ近代(modern)へと歩んだ16世紀、17世紀、18世紀、19世紀の全努力と言っても過言ではない(中略)彼らユニテリアンは三位一体を否定し、神の唯一性(unity ユニティ)を信じる人(Unitarians ユニテリアンズ)である(中略)女性は皆、黒づくめだ(中略)プロテスタント系全体としては、オーソドキシー(正統派)であるカトリックとの対立になる。カトリックというのは「普遍(カソ)」という意味だ。ローマン・カトリックの教えは、「一つの問いに対して答えは一つのみ」という考え方なのだそうだ。これが人類にとっての巨大な官僚主義の悪の思想を生んだ(中略)真の元凶は、やはりローマ・カトリック教団そのものである(中略)だから、今もフリーメイソン=ユニテリアン教会が自分たちにとって一番危険な思想集団であるとして、カトリックとイギリス国教会(アメリカではエピスコパリアンと名乗る)は、フリーメイソンやユニテリアン思想をひどく嫌ったのである

諭吉は宣教師からキリスト教の説教など聞く必要などない。では、なぜ、これほど多くの宣教師したちと係わったのかと言えば、諭吉ほどのレベルの人物でも、宣教師以外に西洋人たちから、知識、思想、情報を学ぶことが難しかったことの表れだ。日本に住んでいる限り、それ以外の選択はなかったのだ(中略)一九世紀における英国国教会(アングリカン・チャーチ)の世界中への布教は、主として二つの宣教団体、SPG(The Church Missionary Society 英国国教会宣教会)によって行われていた(中略)このことは英国国教会(聖公会)の内部が、大きく、高教会派(ハイ・チャーチ・SPG)と低教会派(ロー・チャーチ・CMS)の二つに分かれているためである。高教会派はカソリックとそっくりで教会の権威、奇跡(ミラクル)を重視する。それに対して、低教会派は、個人の救済に力を入れる、という特徴がある。大事なことは、ハイとローの区別で、それはそのまま英国における身分や階級の上下と一致していることである(中略)A・C・ショーが属していたのは高教会派のSPGである。SPGはイギリスの権力者側、体制側とも言っていい(中略)つまり、ショーは「女王陛下のスパイ」であった(中略)こうした背景から、福澤はショーをいろいろな面で支援することになる。明治日本は、世界覇権国、大英帝国の属国なのである。諭吉は、来日の直後にショーを自分の子女(息子・娘たち)のための住み込み家庭教師として雇った。高い給与を約束したはずだ。次に、諭吉は、自宅の隣に、わざわざ西洋館のショーの家まで建てて住まわせるほど熱心に援助した(中略)諭吉自身はキリスト教徒ではないが、彼の家族にはショーから洗礼を受けた者が多い(中略)福澤の孫の清岡暎一(慶應義塾大学法学部教授)がそうだ。いずれも英国国教会、つまりは聖公会信徒としてショーが建てた聖アンデレ教会で受洗されたクリスチャンである。聖アンデレ教会は、現在も存在する。なんと、フリーメイソンのグランド・ロッジがある東京メソニックビルの、通りをはさんだ向かい側である。私は、やはり、諭吉とショーを結びつけたのも、フリーメイソンの組織だったと考える。その根拠は、彼が建てた〝聖アンデレ教会〟という名前にある(中略)建国の父たちに好まれた聖アンドレとは、どういう人物か。『マルコによる福音書』によると、聖アンドレは兄弟ペトロとともにガラリヤ湖で漁をしていた時、はじめにイエスに声をかけられ、弟子となった。伝承ではアンデレはギリシャのアカイア地方でX字型の十字架で処刑され、殉教した(中略)X字型の十字架は「アンデレの十字架」(中略)「アンデレの十字架」と「聖アンデレ」という名称をフリーメイソンたちは好んで使う。もっと言うと、聖アンドレを聖人とする英国国教会自体が、アメリカ独立革命の時にもフリーメイソンと親和性を持っていた(中略)つまり私の考えは、諭吉とショーには、フリーメイソンと親和性を持つという共通点があった。結びつきもあった(中略)ショーは福澤が持つ、日本国内の豊富な人脈を利用したかった。ここに二人の妥協点があった。

伊藤(※博文)がプロシア式の憲法導入の決意を固めたのは、現地で指導を受けたロレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein 一八一五〜一八九〇年)の助言による(中略)フォン・シュタインはフリーメイソンだった(中略)諭吉の目的は、息子二人にアメリカの高等教育機関で勉強させるためだけではなかった。息子たちの手紙にも、友達を作り積極的に交際せよと、度々書いている。アメリカでユニテリアン=フリーメイソンの人々と交際し、ネットワークの一員となることの重要性は、諭吉が一番よく知っていた(中略)学業は上手くいかなかった福澤の長男の一太郎ではあるが、ユニテリアンのサークルに上手く溶け込めたようだ(中略)ハーヴァードというアメリカ最古の大学は、ユニテリアン教会の修道院として始まった(中略)アメリカの建国とハーヴァード大学は直結している(中略)カルヴァン派である保守派は、「彼らリベラル派は、偽装したユニテリアンだ」と決めつけた(中略)その実、ハーヴァード大学にいたリベラル派とは、まさしくユニテリアン教徒なのだから、保守派の言うことは事実だった(中略)当時のボストン市民たちは、ハーヴァード大学の神学部をユニテリアンと見ていたし、実際もそうだった(中略)ロシア滞在中に、諭吉は驚くべきことに、ロシアから諜報員(エージェント)にならないかとスカウトされている(中略)諭吉は、この話を死ぬ二年前の六四歳で自伝に書くまで秘密にしていた(中略)事件が起きた。品川御殿山に建設中の英国公使館が長州の高杉晋作、久坂玄瑞らの攘夷派によって焼き討ちされたのである。高杉や久坂は五年後の明治維新を生きて見ることはできなかった。だが、公使館に爆裂弾を投げる火付け役の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)は、明治政府の最高指導者となり、その後、半世紀近く生きた(中略)江戸無血開城の直前に諭吉が建てた三田の屋敷は、家の床を高くして押入れのところに逃げ板を用意した。暗殺者に踏み込まれ上手く逃げられない場合に、揚げ板から床下に潜って逃げるために、諭吉が作らせた。このような逃走用の仕掛けのある家をフリーメイソンの人たちは、欧米でもよく作った。このような作りでは、長崎のグラバー邸が有名だ。諭吉は、この用心深さのために幕末の動乱期を生き延びることができたのだ(中略)緒方洪庵が急死した。この日の通夜の席で、諭吉は隣にいた大村益次郎に「下関での攘夷の決行など狂気の沙汰だ」と話すと、大村はむきになって反発し、「防長の土民はことごとく死に尽くしても許しはせぬ。どこまでもやるのだ」と大変な剣幕で怒った。この時、諸外国のことを知る蘭学でありながら、列強に激しい怒りを表す大村の豹変振りに、適塾の門下生たちは戸惑い困惑した、と諭吉は自伝に書いている。だが、この諭吉の書き方に、私はどうも納得がいかない。というのは、大村は洋学の必要性を十分に理解していた。この通夜の一ヶ月前の五月には、いわゆる、後に〝長州ファイブ〟と呼ばれる五人が横浜からジャーディン・マセソン商会の船で密出国している。伊藤博文、井上馨、山尾庸三、遠藤謹助、井上勝の五人である。伊藤、井上、山尾は英国大使館を焼き討ちを実行したテロリストである。だから、英国への留学は彼らの国外逃亡の意味もあった。しかし、その逃亡先がテロを仕掛けたイギリス本国である。大村は、彼らの密出国を手助けした一人だ。攘夷を実行するための留学とは詭弁である。大村は本当に、諭吉にそんなことを言ったのだろうか(中略)諭吉は、幕府内では一橋派(慶喜擁立派)に属していて、諭吉の情報は一橋家から薩摩藩へ渡っていた(中略)文久三年諭吉にとっても目まぐるしい一年だった(中略)下関事件が起こり、恩師の緒方洪庵が死に、七月には薩英戦争の勃発である(中略)諭吉は、この文久三(一八六三)年の自分の活動を、ほとんど書き記していない。 ※引用者加筆.

大音楽家のモーツァルトも大思想家のデカルトも、近代科学者(モダン・サイエンティスト)の始まりのガリレオもホッブズもニュートンも、ジョン・ロックもモンテスキューも、それからロシアのドストエフスキーもトルストイも、みんなユニテリアン(理神論者、神の存在を疑う)なのである(中略)エマーソン(※LGBTの元祖)は、実はフリーメイソンの会員でもある(中略)フリーメイソン = ユニテリアン(※イエスは人間であり一人の男であるとし三位一体を否定する人々)たち(中略)ヨーロッパ人は、すでにほとんどがこの理神論者である(中略)だからユニテリアンの中には、キリスト教徒でさえなくなった人々がたくさんいる。そしてラルフ・ウォルドー・エマーソンがまさしくその先駆者(中略)お坊さまの存在そのものが悪だ、とユニテリアンは気づいた(中略)だからお坊さま(僧侶)はもう要らない。どんな宗教であれ(中略)この考えを「万人司祭」という言う(中略)ユニテリアン急進派は、実は、もうキリスト教のプロテスタントの諸派の中の一つであることから出ていった  ※引用者加筆.

モーツァルトの歌劇『魔笛』の中にフリーメイソンの入会の儀式の場面が描かれている(中略)ここでモーツァルトが書いている「死ぬことこそがわれわれの真の幸福の鍵である」は、フリーメイソンの思想である。キリスト教(と言っても、ペテロとパウロによって発展したローマ・カトリック教)の教え(教義)では、人は死んでも永遠の墓の中に眠るのではなく、最後の日には呼び戻されて審判を受ける。永遠の生命を与えられる者と地獄へ落ちる者とに分けられる。カトリック教会は、ヨーロッパの民衆の生(生活)だけでなく、死(死んだあと)までをも管理し支配したのだ(中略)モーツァルトは、当時の教会支配の社会では、決して口にして(書いて)はならない危険な思想を表明している。「死ぬことで自分はキリスト教会の支配から自由になれる」とはっきり書いている。今から225年前のヨーロッパでは、啓蒙思想(エンライトンメント)の自由思想は危険思想だった。階級社会を打破して「四民平等」を唱えることは、本当に危険なことであり、十分に過激な言動だった(中略)世俗重視の思想は、ローマ・カトリック教会の体制への強い批判を秘めていた。勃興する有能な市民(シビリス)たちの階級が、もう我慢しなくなった。無能で傲慢なだけの貴族や僧侶(司教)たちの言うことをもう聞かなくなった。イルミナティ=フリーメイソン運動は、ですから反教会・反貴族主義であり、近代啓蒙思想の過激な一種です。ですから国王と政府によってすぐに禁止され弾圧されました。カトリック教会だけでなく、プロテスタント諸派の教会の教えにも反する思想として、政治弾圧の対象となりました。だから天才音楽家のモーツァルトも僧侶(神父)たちに嫌われてキリスト教徒として埋葬されなかったのです(中略)市民という言葉を日本人は勘違いしている。市民というのは、横浜市民とか武蔵野市民というような、そんなただの住民を表す言葉ではない。お金持ちのことを指す。従業員50人と同じように奴隷を50人とか抱えていた(中略)中国でもヨーロッパでもどこでも、お城(キャッスル castle)には軍隊がいて王様を守っている。たいていは山の上にある。この山城の外側にもう一つ、広々とした城壁が2キロ四方ぐらい続いてその内側が全部で都市だ。そこに住んでいる市民たちがシチズン(シビリス)だ。そこには学校があり、市場があり、教会もある。そこに住んでいる人々は金持ちで、職工長たちから上の豊かな商人たちだ(中略)戦争があるとその城壁の中に逃げ込める人がビュルガー、シチズンです。百姓たちはその外側で農業をやっている。夜になったら城の中に帰れる人々もいた(中略)モーツァルトは最後はたった35歳でウィーンで死んでいる(中略)最後は死体は城外に運ばれて穴に投げ捨てられた。お城の外の一般大衆用というか、教会に相手にされない貧民たち用の集団墓地に投げ捨てられた。なぜなら彼が教会に逆らったからだ。モーツァルトは僧侶たちから、死んだ時の終油の儀礼をしてもらえなかった。この事実に端的に表れているように、フリーメーソンたちは、表面上は教会に従い、貴族や国王に従っていたのだが、もう言うこと聞きたくなかった。だから彼らが起こしたのを市民革命という

フリーメイソンリー=ユニテリアン勢力は、幕末の日本国内の対立する勢力の両方を操った。彼らが計画的に、幕府内の人物として育てたのが、勝海舟、榎本武揚、西周である。そして、倒幕派内の人材として育てた人物が、伊藤博文、井上馨である(中略)ここでズバリ書く。幕府と朝廷の公武合体派が、正しい勢力だったのである。それに対して、イギリスによる裏側からの管理・指導を受けたのが薩長同盟である(中略)イギリス商人とつながっていた高杉晋作が、下関 (馬関、赤間関ともいう)を直接、奪い取った事件(中略)この事件により、高杉たち下級武士たちは、藩の実権を握り、藩主・毛利敬親の支配から脱した(中略)幕府は第2次長州征伐を実行した(1866年) 。ところが、戦いのさなか、将軍・家茂は大阪城で殺された(中略)さらに、家茂とともに、公武合体路線を推進してきた孝明天皇も、半年後に殺された(1867年1月)。二人を殺したのは、長州の〝忍者〟伊藤博文、その人である(中略)徹底抗戦派の土方歳三は、箱館の戦いで戦死した。榎本たちは、どうも、土方たち徹底抗戦派を見殺しにするどころか、背後から撃ち殺したようである(中略)榎本は、フランス大東会(※フランスのフリーメイソン=ユニテリアン勢力)の日本における代表であった(中略)人定主義とは、人為主義である。神が決めるのではなく、この地上の人間たちがすべてのことを決めるという思想である。功利主義は、ジョン・スチュアート・ミルの『代議制統治論』(中略)代議制民主主義を説いたこの本が、デモクラシー (民主政治) についての当時の標準的な教科書である。J・S・ミルは、啓蒙思想家で科学者のジョセフ・プリーストーリー(1733〜1804) の著作から多大な影響を受けていた。プリーストーリーはイギリスのユニテリアンの祖と呼ばれている人物だ。彼はイギリス国教会によって、自宅を放火されたりもしている。そういう迫害を受けながらも、言論の自由のために生涯闘った。このように西周は当時の西洋の最先端の思想であったデモクラシーを。ユニテリアン=フリーメイソンたちを通して、大いに学んだ。西を指導したフィセリングは、彼をフリーメイソンに推薦し、ここに正式な記録に残っている最初の日本人フリーメイソンが誕生した。※引用者加筆.

プリーストーリーはユニテリアン派の信者で、宗教の自由を熱心に擁護(中略)プリーストーリーは、シェルバーン伯爵に同行して科学ガイドとしてヨーロッパをめぐっている

激動の幕末維新は、すべて英国が敷いたレールに沿って仕組まれたものなのだ。このことを私は、ずっと福澤の目を通して書いてきた。諭吉は、英国によって演出された幕末維新を喜んで迎えたわけでは、決してない。しかし、自分の戦う場所は戦場(殺し合いの場所)ではないことを知っていた。諭吉は、過激思想を嫌った。アメリカ革命(独立)の本当の姿を知っていた諭吉は、独立のため必要な国民経済の発達、文明開化が何よりも大事だとわかっていた。諭吉は、薩長江戸入城の直前の三月五日から病気と称して登城しなくなった(中略)六月には旧幕府、徳川本家に辞職願を提出した。諭吉の願いは八月中旬に正式に受理され、諭吉は一民間人になった。この時、諭吉は三三歳だった。この時から死ぬまで、東京市議になったわずか期間を除いて、諭吉は公職についていない(中略)尊王攘夷などの過激思想を嫌った諭吉は、この時、学生たちに、日本自立のために必要なことは単なる武力ではなく経済力であることを教えた。ここにフリーメイソン思想が持つ、本当に優れた商人思想がある(中略)ユニテリアンは革命的な過激思想のプロテスタント(中略)ユニテリアンは政府の国策の手先として動かない(中略)『学問のすすめ』は、簡単に言えば、ロックの自然権(合理主義。法治思想)を基にした明治という新しい世の中をどう生きればよいかを示した、自己啓発のハウツー本である(中略)『学問のすすめ』は、諭吉がイギリスから独立したアメリカのフリーメイソンたちから学んだ珠玉のエッセンスなのだ(中略)その感動を明治の人たちは共感できた。だから、あれほど多くの人が買って読んだ。その感動が、今を生きる私たちに伝わっていないことが、私は本当に残念で仕方がない。明治からのどこかで、日本人は背骨を叩き折られてしまった(中略)諭吉は、この自由を日本人に伝えたかった。しかし、後年、諭吉が唱えた、この自由は、小泉信三たち〝国家主義〟に傾いた弟子たちによって、「規律ある自由」などというものに変質され落としめられた(中略)諭吉は、発疹チフスに罹り、生死をさ迷った時にもドイツ医学ではなく、ユニテリアンの英米医学を選択した。ドイツ一辺倒の医学に対して諭吉は、明治六(一八七三)年に慶應義塾構内に慶応医学所を設立(中略)諭吉の英米医学の導入は成功したかように見えた。慶応医学所の塾生は、最盛期には一〇〇名に達した。しかし慶応医学所の勢いは、その後、急速に衰え、明治一三(一八八〇)年に廃校となった。そのわけは、ここを卒業しても、直ちに医者にはなれず、医術開業試験を受けなければならなかったからだ。ここにドイツ一辺倒になった、明治政府の意向がうかがえる(中略)しかし、英米医学の灯は、松山棟庵とイギリス留学から帰朝した高木兼寛らに受け継がれ、彼らによって成医会が設立され、それはやがて東京慈恵医科大学へとつながっていった。

日本のフリーメイソン(※福沢諭吉ほか)も立派な人たちでした。優秀な能力の芸術家、技術者、経営者たちだけの集まりだった。それが、ドイツのフリードリヒ2世大王のような王侯貴族とローマ教会によって、乗っ取られていきました。フリーメイソンは、王侯貴族と宗教家が無能なのに威張っていることへの反発として生まれた組織です。それが乗っ取られて、悪の組織になってしまった(中略)そして、のっとられた後は、世界を支配する特権階級の、上の方の隠れた人々の組織になりました ※引用者加筆.

諭吉は、幕府の緒戦での大敗北を受けて、急いで「長州再征に関する建白書」を書いた。建白書の内容は、このまま停戦ということになれば、幕府の権威は地に堕ちる。幕府が長州に負けることは許されない。徹底的に長州を屈服させる必要がある。そのためには、長州の非道を広く海外に知らせるとともに、諸外国軍の力を借りて再討伐を実行する必要がある、というものだった。諭吉の建白書が大阪の老中で総督の小笠原長行に届いたのは停戦合意から四日後の六日のことだった。だから諭吉の建白書が役に立つことはなかった(中略)諭吉は、日本の国情を考え、徳川幕府が直轄の権力を持ち、その圧倒的権力によって文明開化を行わないかぎり、日本の近代化は実現できないと考えたのだ。この空白の三年間に、諭吉は長州藩の取り潰しだけではなく、将軍を日本の君主とする新たな政治体制の確立を目指していた。福沢諭吉は骨の髄まで幕臣であった(中略)幕府最後の年の前年、慶応二(一八六六)年一二月五日。徳川慶喜は京都の二条城において第一五代将軍になった。ところが、その二〇日後の十二月二十五日(クリスマスの日だ)、三五歳の孝明天皇が、突然、崩御した。これも暗殺である。だが、歴史家たちは認めようとしない(中略)自伝では、同僚の通訳、関振八と一緒になって「幕府を潰せ」などと威勢のよいことを話したことになっている。これは怪しい。いくら旗本になったとはいえ、諭吉は自分が監視される対象であることを十分承知している。そんな軽口が叩けるような船中の雰囲気ではなかっただろう。しかし、諭吉が心変わりしたとすれば、それは、どういう理由によるものなのか。今回のアメリカ行きで、諭吉は仙台藩の江戸留守居役、大童信太夫からライフル銃の買い付けを依頼されていた。仙台藩が諭吉に渡した二五〇〇両という金額から考えると、買い付けの規模は、数千丁になる。しかし、諭吉は、結局、ライフル銃を買い揃えることはできなかった。一丁も買えなかった。帰国後の仙台藩に対する諭吉の釈明は、「現地に小銃は大量に出回っていたが、自分には銃の見立てができなかった。だから買わなかった」という不自然なものだった。見立てができないことなど、最初からわかっていたはずだ。買えなかった背景には、幕府の妨害があったというのが本当のところだ、と私は思う(中略)慶喜の幕府を支える意思のある大藩の仙台藩ですらライフル銃を買うことができないのだから、将軍慶喜による君主制などできるはずがない、と諭吉は考えたのだろう(中略)諭吉は慶応二(一八六五)年になると、薩摩とは距離を置くことができるようになった。それが『西洋事情』の出版である。三月から六月にかけて執筆された『西洋事情』初編は尚古堂から、一〇月に出版された。諭吉が中津藩から拝借した一五〇両は、この本の印刷製本代に充てられた。本の値段は金三分(4分の3両)と効果なものだった。それでも、この本は売れに売れた。諭吉の言葉を借りれば「著者の手より発売したる部数も十五万部を下らず」とあり、これに定価を掛け合わせると一一万両という途方もない売り上げになる。このお金の力で、諭吉は、一身の独立を果たすことができた(中略)一両一〇万円で計算してみても一一〇億円という途方もない売り上げ

アメリカで独立革命 (1776年)をやったのは、プロテスタントの主流派であるピューリタン (カルヴァン主義者)ではない。アメリカ独立革命をやったのはユニテリアンUnitarianというサイエンス(近代学問、科学)を認めるプロテスタントたちがやったのだ。ユニテリアン=フリーメイソンの会員たちがやったのだ(中略)科学者 (大学教授たち) は今もユニテリアンの教会に通う(中略)ユニテリアンは、〝科学的なプロテスタント〟であるからだ。彼らは、イエス・キリスト(jesus)という男の一生を信奉する。イエスの生き方と言葉を極めて素晴らしいものとして、崇め尊重する。そして、それ以外の、教会儀式や三位一体説という訳の分らないカソリック教会の教理や、その他のキリスト教の大教団が持つ威圧的な僧侶(司祭や司教たち)の巨大な偽善の階層構造を認めない(中略)すなわち、神による奇跡や恩寵や聖母マリアの処女懐胎 (無原罪妊娠)などの、非合理で愚劣な宗教思想を峻拒した。だからユニテリアン信徒たちは、密かにフリーメイソンリーの会員でもあるのだ───副島隆彦氏(著書名失念)

あるユニテリアン教会の牧師がリバタリアンとなって活躍した話についてご紹介したかったのですが、福島原発事故の時に書庫ごと本を全部捨ててしまったので、本のタイトルを忘れてしまった(六ヶ所村が心配で、震災の時は絶版本の大事なところだけ破いて束にした。それ以外は夏服の着替えだけバックパックに詰め込んだ)。現在探しているところです。誤解されがちなので説明しておくと、東日本大震災のときの素早い決断は、福島原発のためではなく、六ヶ所村の事故の可能性のためだった。後で後悔するくらいなら、さっさと大きな決断を下したかったからである。

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