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大島渚監督「御法度」_秘密結社たる新撰組、顔だけ残して、全て藪の中。
新撰組。
時に若者たちの青春群像として、時に内ゲバを繰り返す狂気の集団として、彼らは描かれてきた。
良きにせよ悪きにせよ、だがそこには必ず、自らの信じる「義」を貫く男たちの姿が現れた。時代に流され妥協しながら生きていくしかない現代人にとって、新選組はロマンそのもの。絶えることなくドラマが作られ続けている。
他方、時代考証で他に類を見ない大河コミック「風雲児たち」を代表作にもつ漫画家・みなもと太郎は、初期の作品「冗談新撰組」で新撰組とはなんだったのか? こう書いている。
これは そのややこしい時代をますますややこしくした男たちの物語である_
この考えに基づき? 日本を代表する鬼才・大島渚は、新撰組を描く上での定石を外した。ヒーローでもない、悪玉でもない、目的すら謎に満ちた(そして鉄の掟で統率した)秘密結社として描く。フリーメーソンみたいな不気味な存在。
ダンダラ羽織ではなく、黒衣・黒袴を着用した死装束の集団。
彼らの謎に満ちた日常が、淡々と語られる。
90年代の大島は20世紀初頭のハリウッドを舞台に、早川雪州とルドルフ・バレンチノを主人公にした異色の国際的大作「ハリウッド・ゼン」を構想するも撮影直前に中止となり、96年には脳出血に倒れて闘病生活が始まるなど波瀾が相次いだが、99年に奇跡的な復活をとげて監督したのが本作である。「愛のコリーダ」の助監督であった崔洋一や「戦場のメリークリスマス」のビートたけし、坂本龍一らゆかりのメンバーに頼もしく支えられながら、大島は司馬遼太郎の原作「新選組血風録」所収の二話をもとに、幕末の鉄の規律でまとまっていた新選組に美少年の剣士(松田龍平)が入隊したことで組が動揺するという特異な物語を構想。久々の時代劇を時にはサイレント映画的な温故知新のテクニックさえ動員して語ってみせる大島の映画話法は、軽快なウィットと殺気じみた緊張を泰然と行き来して特異な風格をみなぎらせる。性と権力と少年という大島映画のモチーフの集大成ともいうべき本作で大島は不死鳥のごとく蘇った。
(作品解説 樋口尚文)
大島プロ 公式サイトから引用
この映画に分かりやすいキャラクター というものはいない。
正確にいえば、皆、役割には従えど、謎めいた表情で本心を隠している。
間と表情を巧みに操り、本人が長年演じ続けた役柄同様、ヤクザっぽい、そして何考えてるのかわからない土方歳三(演:ビートたけし)。
本当に彼が頂点なのか?姿を巧みに表しては消す近藤勇(演:崔洋一)。
謎めいた微笑で最初から最後まで通す沖田総司(演:武田真治)。
彼らが一体何を目的に活動しているのか。 それすら語られることもない。
ここに、二人の謎の深入りが加わる。
前髪の妖しい少年:加納惣三郎(演:松田龍平)と田代彪蔵(演:浅野忠信)。
彼らもなぜ新選組に入ったのか、語られることはない。
頭領から新入りまで、全てが謎として存在。結果、組織そのものが謎めいた集団となり 、誠や大義といった言葉もまたおぼろげな闇に包まれていく 。
そして、その闇の中で、加納惣三郎に、新撰組の隊士面々が魅せられ、寄ってたかる。喜怒哀楽を顔に示す者も、エキセントリックに叫ぶ者もなく、非常に淡々と物語は進んでいく。闇の中の魑魅魍魎、の図。
そして「あれほどまで愛し合った」加納と田代の決闘を山場に、映画は終わる。
後に残るのは、妙にも、隊士の顔ばかり。
その他(監督が関西芸人との付き合いもあってか、キャスティングされた)坂上二郎、トミーズ雅、ら脇役たちも妙な印象を残す。
これは大島渚が目論んだ通りだろう。
「五十人を超える出演者のうち、二人以外は誰一人普通の顔をした奴を選ばなかった」と豪語
「ぼくの流儀」大島渚 192ページ
「戦場のメリークリスマス」や「締死刑」同様、ポリティカルな題材を扱うのでは…と身構えていると、呆気にとられる。(それが苦手な方は、ご安心を。)
静かで、しかし不思議な余韻を残す映画だ。遺作といえば、確かにそれらしい。
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