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得体のしれない憎悪に絡みとられる映画「白いリボン」(ミヒャエル・ハネケ監督)。
日本近代文学館の建設に尽力した小説家・高見順(1907年〜1965年)は
死の一年前、詩集「死の淵より」を発表している。
それは、死と暴力、悪意が自分の身に近づいてくる「いやな感じ」を、異常な緊張感の中で綴った、戦慄すべきものだった。
例えば。
ぼくの笛
烈風に
食道が吹きちぎられた
気管支が笛になって
ピューピューと鳴って
ぼくを慰めてくれた
それがだんだんじょうずになって
ピューヒョロヒョロとおどけて
かえってぼくを寂しがらせる
人間の悪意、暴力ばかりを描き続ける
ミヒャエル・ハネケの映画は、観終わったあと、これと同じ「いやな感じ」を見るものの心に植え付ける。生理的嫌悪を容赦なく、堂々と、ぶつけてくる!
本作は、WW1前夜のドイツ北部のとある村を舞台にした、たちの悪いはなし。
季節は夏。屋外では、絶えず小蝿の飛ぶ音がし続ける。白黒画面しじゅうに、腐敗と死の臭いを、つきまとわせる。
第一次大戦前夜のドイツ北部のとある村を舞台に、次々と起こる不可解な事件と、そこで暮らす人々の心の中に潜む悪意や憎しみを鮮烈に描いた、ミヒャエル・ハネケ監督が贈るミステリー・ドラマ。
監督:ミヒャエル・ハネケ
出演者:クリスチャン・フリーデル/レオニー・ベネシュ/ウルリッヒ・トゥクール/ブルクハルト・クラウスナー/ヨーゼフ・ビアビヒラー/ライナー・ボック/スザンヌ・ロタール/ブランコ・サマロフスキー
脚本:ミヒャエル・ハネケ
紀伊国屋書店 公式サイトから引用
封建制をそっくり引き継いだ厳格な上下関係、いわゆるムラ社会が、人間同士の健全であるべき関係を蝕んでいく。ひとつは、地主と小作人の関係性だし、もうひとつがオトナとコドモの関係性だ。子供たちは親の所有物ということで、特に父親から絶えず抑圧される。暴力、監禁、尋問、ネグレクトは当たり前だ。
直接の描写はない。「結果」だけが映されるのが、またえぐい。
「強権的な父」を体現する登場人物がふたり。実質的な村の支配者である男爵と牧師だ。
彼の妻が反抗する一幕で、男爵の為人がありありと現れる。妻は「銀行家との不倫をした過去」を怒りを抑えた冷静な表情で告白する。そして訣別を夫に向けて告げる。
なぜそんなことをした、と夫は問いただす。
「悪意、嫉妬、無関心、暴力」男たちはそれしかわからない(だから銀行家の優しさに惹かれたのだ)、と妻は涙ながらに告白する。遠回しな言い方で、男爵の内面性を批判する。
しかし夫には、「彼と寝たのか」という嫉妬しか頭にない。「悪意、嫉妬、無関心、暴力」に自分の頭が冒されているのを自覚せず、妻の話を表面でしか理解しないのだ。
「悪意、嫉妬、無関心、暴力」しか念頭にないのは牧師も同じだ。「子供は悪に迷う生き物だから、導いてやらんといけない」という狂信的な信念。その信念に基づき、子供たちを容赦なく教育する。
結局、根本的な問題は解決せずに、映画はぼくらを突き放して終わる。
もやもやするどころではない、ぞわぞわする感覚だけを残して、映画は終わる。
かつて発表した問題作 「ファニーゲーム」において
なぜ人々がこの映画に憤慨するのかははっきりしています。憤慨させる為に作ったのですから。暴力は撲滅できないものであり、痛みと他人への冒涜であることを伝えたい。だから、暴力を単なる見せ物ではなく見終わった後に暴力の意味を再認識するものとして描かなければならない。
と言ってのけたミヒャエル・ハネケ。
本作もまた、得体のしれない不気味さ、憎悪 というべきものを
恐怖以前の感覚 嘔吐すべき、唾棄すべきものとして叩きつけた、いまなお(今だからこそ)意味を失わない、身震いする傑作だ。
なお、本作は第62回カンヌ国際映画祭パルム・ドール、第67回ゴールデングローブ賞外国語映画賞ほか、多数の映画賞を受賞している。
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