田宮二郎、黙っていても、もの扱いでも、いい男。増村保造監督「爛」。
"「ただ自分の現実を描く」ことしかなく、「作者が持ち得るべき思想」が一切なかった""次第に文学者仲間以外の興味も同感もひかぬ特殊な内容を持つようになった""作家が社会の塵埃を知らない、本質的にはのほほんとしたエリートであるが故の、自我の孤独と優越の文学"etc. 今となっては功罪半ばして評価される、日本の自然主義文学。
本家のモーパッサンやゾラと異なり、映像化の恩恵をまるで受けていないのも、この世代の作家に共通した特徴。田山花袋、国木田独歩、正宗白鳥、近松秋江、岩野泡鳴、真山青果、小栗風葉…今となっては読みづらい、文学としてあまりにも発展途上の構成や台詞回しを、目を皿のようにして青空文庫や黴の生えた古書を読み解くしか、自然主義文学に触れる手がかりはない現状。
とはいえ、例外も存在する。
今回は、徳田秋声が記した、元遊女の愛と運命を純粋客観の目で辿り文名を確立した「爛」を、同じ作者の小説を成瀬巳喜男監督で映画化した「あらくれ」のヒットに追随して企画されたか、増村保造監督がメガホンをとった1962年映画版を紹介する。
お話は簡単。
前半は、増子(演:若尾文子)が、浅井(演:田宮二郎)の正妻の座を柳子(演:藤原礼子)から略奪するものがたり。
後半は、その増子が、第三の女:自身の姪である栄子(演:水谷良重)の出現で妻の座を狙われる立場となって、悪戦苦闘する物語。
妻の座を肉体で奪い合うただれるような女の闘いとは、まさにこのこと。
増村監督とあって、演出は確か。自然主義文学の「ギスギスした」「どこか陰鬱な」「納得いかない終着点の」テイストは残しつつも、閉塞状態に置かれた女性を性欲という行為を通して解放する試みは、本作でも成功している。
略奪婚という大罪を犯した増子が、自由奔放な栄子に対し、「まともになれ」と好きでもない男との結婚を迫る、「おまいう」なシークエンス、この前後の展開は、如何にも増村的な、本作のハイライトと言えるだろう。
増村監督の女性の描き方&本作の若尾文子の仕事ぶりについてはおおよそ先人たちによって語りつくされているので、本記事では田宮二郎について触れてみたい。
と、原作にある様に、増子が愛する男として、そして自身の生計を立てる収入源としてもたれかかっている浅井は、しかし、どこか掴みどころがない人物。それは、不意に増子の前にぱたりと顔を見せなくなったり、具体的な仕事ぶりが描写されなかったり、増子への愛欲をむき出しにしたかと思えば、
「カラダ目当て」ではないかと、せっかく手に入れた?増子を愛しているのかいないのか、最後の最後まで、よく分からない様子に表現されている。
増村監督は、この難しい、浅井という男を、『白い巨塔』で演じたような冷たい人柄、俗物を超越した人物を見事に演じて見せる田宮二郎のキャラクター、風貌に一任させている。ニヒルと一言で片づけてもよい。
それでいながら、しゃべると、どこかはんなりとした、とぼけたような、真剣さが、まるで感じられない口調であるのが、実に良い。
増村保造は明らかに、彼を「もの」の様に描写している。それが、女たちの生々しい憎しみ合いを際立たせている。たがか「もの」に固執する人間の愚かさに踏み込むかのように。
ともあれ、
と出番は、女たちに(文字通り)奪われて数少ないながらも、みごとな男ぶり、黙っているだけで絵になる姿を見せる田宮二郎。彼のファンにもお勧めの映画ですぞ。