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『知ってるか?小説の中のリプリーは捕まらないんだぜ!』 「太陽がいっぱい」と小説「映画篇」。

1960年のフランス映画「plein soleil」、邦題「太陽がいっぱい」は、アラン・ドロン主演、我が国でも大ヒットを記録した、犯罪映画の名作だ。

解説
アラン・ドロンの出世作であり、ヒッチコック監督作『見知らぬ乗客』や近作『キャロル』の原作者パトリシア・ハイミスの代表作の映画化。貧しい青年トム・リプリーは富豪の友人を妬み、その莫大な財産を手に入れるため、殺害計画を実行。彼は友人になり代わる完全犯罪を成功させたかに見えたが―。ニーノ・ロータ作曲のテーマは永遠の名曲。
物語
トム・リプリー(アラン・ドロン)は、友人で富豪の息子であるフィリップ(モーリス・ロネ)をアメリカに連れ戻すよう彼の父親から頼まれ、ローマにやって来た。しかしフィリップには帰国する気はなく、父親から謝礼金を得ることが出来なくなったトムは、貧しい自分を蔑んだ目で見るフィリップへの妬みと殺意を募らせていく。ある日、トムはヨットで沖合に出た際、船上でフィリップを殺害し、死体を海に投げ捨て、フィリップになりすますが―。
監督  ルネ・クレマン
出演者 アラン・ドロン、マリー・ラフォレ、モーリス・ロネ、エルノ・クリサ

午前十時の映画祭 公式サイトから引用

フィリップがトムをいじめ抜く(それが殺意のきっかけとなる)一幕があるのだが、全く記憶に残らない。
記憶に残るのはトムのことばかり:死体を海に投げ捨てた後、財産を奪取のための完全犯罪の目論見、その目論見のあっけない破れ、
そして日差しにさんさんと焼かれる、彼の上半身だけだ。

アラン・ドロン、悪魔のてわざ。


本作のハイライトは、トムがフィリップになりすまして、彼の財産を手に入れるための手を着々と打ち始める後半だろう。

例えば、フィリップのパスポートの偽造には、公印の凹凸を粘土で型どりすることでニセの公印を作り、それを自らの写真に押すことで、見事に差し替える。
また、フィリップのサインをそっくり真似るため、スライド映写機を手に入れ彼のパスポートの筆跡を拡大して壁に貼った紙に映写し、筆跡の映像を何度も繰り返しなぞって練習し、フィリップと完全に同一のサインをできるようになる。 
よくもまあそんな才能があったものだと。悪魔の手わざだ。

もうひとつ印象にのこるのは、あえて言えば、がっちりした胸に比べて、
腕の筋肉が少し足りない、微妙にバランスが崩れている トムの肉体だろうか。
マッチョではない、微妙に弱さを感じさせる肉体。
完璧な強さの中に、一点だけくもりを感じさせる、不可解な印象を与えている。
強い生命感覚の裏側に潜む不安感:その正体がオチで明らかになる。


この結末、私は腑に落ちた。


トムが全身全霊を込めた目論見は、最後、「運命の悪戯」で暗転する。

フィリップの財産乗っ取りは目前にして、フィリップの婚約者マルジュの気持ちも、次第にトムに向きつつある。
イスキアの町でトムが人生最高の気分を味わっている最中、マリーナでは他社に売り渡すフィリップの遺品:ヨットを簡易検査するために一旦陸に引き揚げる作業がすすむ。
船体が陸上に上がると、船尾のスクリューに絡みついた一本のロープに引っ張られるようにして海中から、黒っぽくなった帆布の塊が現れ、帆布のすきまから腐敗した人の手が飛び出している。

死体に気付いたマルジュの悲痛な叫び声がマリーナに響きわたる。
(静寂を破って、更に痛い。)

トムはそんなことは露知らず、ビーチで美酒に酔いしれている。
ウェイトレスがトムに呼ぶように言う。彼女の背後には警察がいる。
何も知らないトムは笑顔で売店へと歩いていった。
後には、陽光溢れる浜と青い海が広がるのみだ。

人を殺し、それを覆い隠すことの難しさ。美しいはずのバカンスで、この結末を迎えるからこそ、神罰を思わせる重さがあるし、完璧でない彼だからこそ演じきれたのだと思う。
このあっけない結末、不思議と私は腑に落ちた。


他方、この結末に納得いかない人もいる。
今回同時に紹介する「映画篇」(著・金城一紀)に登場する
70年代を生きる「僕たち」が、そうだった。

僕たちは映画が始まってすぐに、身寄りもなく貧しいけれど野心たっぷりで才能溢れる主人公、トム・リプリーに夢中になった。たとえ、リプリーが完全犯罪を目論んで友人を殺すようなキャラクターであったとしても。だから、リプリーが警察に捕まるラストに納得いかなかったのだ。僕たちがこれまで見てきたアクション映画では、主人公が捕まることなんて起こり得なかった。ヒーローは自由を奪われてはならないのだ。絶対に。

「映画篇」 53ページより引用


「映画篇」のふたりは納得いかない。別の結末を夢想する。


同じく「太陽がいっぱい」と小題を付けられた一編の中の主人公、
「僕」と龍一は同じ学校に通っていたが、小三のクラス替えで一緒になるまでは、互いを知らなかった。この学校で教えられる祖国は、北朝鮮だ。
ともに父親を持たず、ともに映画にうっとりしてしまう性分のふたりは、
いつしか、映画を介して友達になっていく。
アクション映画のヒーローたちに自らを同一視し、はしゃぎ、なり切って遊ぶ。
面白い映画を見たら、その感動を、あらゆる言葉を使って分かち合うし、
つまらない映画を見たら、面白くなるように二人でストーリーを作り替える。
彼ら二人以外に何者も入り込めない関係、しかし聖域とも呼べる場所には決して踏み入れない。 彼らなりの強い糸、固い友情だ。

その二人も、互いの進路が異なる。 一緒でいられる時間は短い。
中学の卒業式の後、ふたりは名画座で「太陽がいっぱい」を観る。 
面白かった、トム・リプリーに夢中になった、だから、あのラストはない。
トムが迎えるべき別の結末を、夢想する。

トム・リプリーは映画のストーリーよりももっと多くの金をせしめ(だいたい五億円)、警察なんかには捕まらず(激しいカーチェイスの末に逃げ切る)、南米(アルゼンチンあたり)へ高飛びする。そして、続編では、整形で顔を変えて別人になり(整形前に南米に逃亡中のナチスの残党と対決する)、新たなる完全犯罪に手を染めることになるのだ_。

「映画篇」 55ページより引用

そして最後の二人の会話は「これまで見た中で面白かった映画は何か?」だ。

「僕」は進学、龍一が母校の先輩を介してそのスジの道に入る。
二人の親交は、しばらく絶える。

再会は悲しい。次に会った時「僕」は大学生、龍一は高校中退のち闇金融の世界に入っていた。「昔のように」ふたりでクソつまらない映画を見た後に、修羅の世界を見た龍一は語る。

才能っていうのは力のことだよ。でもって、力を持ってる人間は、それをひけらかすために使うか、誰かを救うために使うか、自分で選択できるんだ。さっきの映画を作った連中は、ひけらかすほうを選んだんだよ。たいして語りたいこともねぇくせに、自分の力だけは見せつけたくて映画を作るから、結果的にせんずりこいてるみたいなひとりよがりの作品ができあがるってわけさ。

「映画篇」 73ページより引用

この台詞には、ありとあらゆるクリエイターが、ドキッとさせられるだろう。

この後、龍一は「才能を持った、恵まれた立場にいる」ひとびとへの義憤を、タバコの煙とともに吐き出す。 次の台詞が、悲しい。

俺はもうブルース・リーにもマックイーン にもジャッキー・チェンにもなれねぇからな。誰かに代わってなってもらわねぇとよ

「映画篇」 73ページより引用

別れ際、龍一は「僕」に、まだ小説家になる夢を目指しているのか?と尋ねる。「僕」は目指しているだけだけどね、と答える。
龍一はお前ならなれるよ、絶対、と言って

もしよかったら、俺らを救いに来てくれよな

「映画篇」 76ページより引用

それが彼の最後のアドバイスになった。

その言葉はずっと、僕の頭の中にこびりついて離れなかった。就活して、就職して、居心地のよい環境の中にいて、それでも小説家を目指して、その夢は叶い、やがて売れっ子作家になって、初めて「龍一の物語」を書き始めることとなる…。 最早音信不通の彼、龍一が代わりに歩めたであろう、また別の運命を。

本作「映画篇」は、その他「ドラゴン怒りの鉄拳」「ペイルライダー」「トゥルー・ロマンス」ほか、名作を巡る断章の集合だ。
どの作品にも、孤独な人々が映画をきっかけにつながりあい、人生を再生・見つめ直していく経緯が、力強く描かれている。
その根底には、映画への愛が詰まっている。 
美しい須玉の短編集だ。



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ドント・ウォーリー
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