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悪魔的笑い、悪魔的動作、悪魔の失恋。仏映画の古典「悪魔が夜来る」。
これは、15世紀フランスの伝説に基づく物語だ。
時は1485年、美しき五月のある日、城では婚約の宴が続いていた。
そこに紛れ込んだ吟遊詩人のジルとドミニク。
ジルは見た目優男(左)、ドミニクは男装の麗人(右)。
ふたりは、悪魔に魂を売り渡した人間だ。
悪魔に魂を売り渡したからには、不思議な力を少しは使える、ということ。
ジルは、婚約の宴の場で面白半分に殺された農夫のペットの熊を蘇らせる。物陰で泣いて忍んでいた女給の顔を美しく変貌させる。
善業ではない、すべて、戯れだ。
なぜなら、彼らは、他人に心を寄せるとは、つまり「愛」とは何かを知らないのだから。
ジルとドミニクは、城の一室に腰を落ち着けて、一切の感慨もなく互いの過去をほじくり合う。
ジルは元々野盗だった、 と思われる:
愛されることを求めるばかりで、愛することを知らなかった。
ドミニクは元々娼婦だった、 と思われる:
愛したり泣いたり笑ったり、感情というもの自体がそもそも存在しなかった。
そして、ジルとドミニクはかつてふたり一緒に暮らした、 と思われる:
当然、一緒にいることに耐え切れるはずもなく、互いに互いを傷つけあった挙句、悪魔に魂を売り渡した模様。だから互いに、人を愛することに絶望し、人に愛されることを諦めている。
(そして「人間らしい表情を」ふたりとも演じていると、判明する。)
彼らがなすべきことは、悪魔らしく、人間を破滅させること。
ジルとドミニクは不思議な魔法、異性を魅惑する美貌を使って、
それぞれ、城主の娘アンヌ、その婚約者ルノーを誘惑する。
誘惑は成功する、が、思わぬ事態を招く。
まず、ドミニクはルノーとアンヌの父(城主)の心を同時に射止めてしまう。
「ついこの間までは女は所有物と思ってたジャイアニズムな武人」ルノーと
「ドミニクに亡き妻の面影を見出す」城主の間に、ドミニクをめぐる三角関係が生じる。もちろんこれは、人の魂刈り集める悪魔には好都合。
他方、ジルは本来の目的を忘れアンヌと恋に落ちてしまう。
なにせアンヌは、宴の場で、小人たちを客たちが嘲ったり狩の話が出たりすると目を伏せていた純真無垢、穢れをしらない性格だ。
ジルに惚れた途端、嘘偽りのない愛の言葉を彼に向けて囁く。
アンヌに愛されるようになった途端、ジルは彼女に冷たくする。
それは、「悪魔の力」を借りている自分が卑怯だと思っているし、悪魔の力がなくなったら自分は愛されなくなる、と思っているからだ。
アンヌの愛が本物と知った途端、今度は愛にのぼせ上がる。
城主にバレて牢屋に入れられても愛は死なない。
ジルとアンヌは、言葉もなく、じっと互いを見つめ合う。それが確かな愛の証。
形は何であれ、ジルとドミニク=悪魔に売り渡す魂が3つ仕上がったこととなる。
細工は上々、あとは仕掛けを御覧じろ、とばかりに
やっと、悪魔がやって来る:ある嵐の夜、雷鳴に乗ってきて。
この悪魔(コメディアンが演じるのもあり)手先の巧みさ、笑いの高らかさ&朗らかさ、煽りの巧さ、洗練されていて、かつ悪魔っぽい。モンティ・パイソン「スペイン宗教裁判」の「悪魔的笑い」「悪魔的動作」そのものを操る。
この悪魔、降臨して早々、その「悪魔的笑い」を意味もなく行使する、なんか笑わなくちゃいけない感がして宴席の客たちも笑い出す、席が不可思議な笑いに包まれたところで、悪魔は突然笑いをやめて「何がおかしい?理由もないのに笑うのかね?」と真面目な顔して叱る、まさに悪魔。
その本性は、「他人の不幸を見ているのが楽しい」「退屈しのぎ」と自分の思うがままに周囲を弄んでいく悪魔中の悪魔。彼の所業、やりたい放題には、ある種の潔さすら感じるほどだ。
悪魔はドミニクの背中を押す:
ドミニクをめぐって、城主とルノーが決闘を行い、あっさりルノーが死ぬ。次いでドミニクを城外に放ち、城主にそれを追わせる:魂二つを容易く刈り取る。
そんな悪魔でも唯一思いのままにならないものがある:夢邪鬼にもアンヌに恋してしまったのだ。またも三角関係が出来上がる。
この恋の結末を言ってしまえば、
やはり、悪魔は圧倒的な力を使って、ふたりを追い詰める。
「ジルの魂を救う代わりに、アンヌよ、私のものになれ」と。
しかし悪魔に一矢報いるため、アンヌは「初めて」嘘をつく。
自分を騙したことに、いや、どんな詐術を掛けてもジルとアンヌの愛が壊れないことに怒る悪魔。ふたりをそのまま石像の姿に変えてしまう。
「終わったな」と悪い笑みを浮かべる悪魔、
ふと耳を澄ますと、何かが脈打つ音がする。
悪魔は石像に耳を当てる、それは熱いハート…心臓の鼓動だ。
彼らは、石に姿を変えても、互いを愛し合っている。
悪魔は自分の思いのままにならないものが残ったことに憤怒して、掻き消える。愛の証だけが永遠となって残る:映画は終わる。
この映画は1942年、ドイツの影響力の小さい南仏に逃れ、ニースのラ・ヴィクトリーヌ・スタジオにおいて製作・撮影された。
監督マルセル・カルネにとって、脚本家カルネ・プレヴェールとコンビを組むのは『陽は上る』(1939)以来。3年ぶりのコンビ復活、快作登場に、当時の観客は拍手喝采を挙げた。(現代日本で喩えれば、「キルラキル」以来久しぶりの今石洋之&中島かずきのタッグ再来、つまり「プロメア」と同じ、熱狂!)
本作における「他人の命を弄ぶ」悪魔は、総統閣下のメタファーだと言う。だが、その歴史的文脈を差っ引いても、古びない。
資材も乏しい中で為された時代考証は相当緻密なもの。洗濯女も、汚い身なりの芸人も、ラッパ吹きも、騎馬兵も、勢揃い。衣装甲冑のコスチュームプレイを見つめるだけでも、見応えある。
そしてそれ以上に、脚本の巧みさ、演出の見事さ、そして悪魔の悪魔らしさが
目を惹きつけてやまない、不思議な傑作だ。
※本記事の一番上と一番下の画像はUnzeroFilms公式サイトから
残りは全てCriterion公式サイトから引用しました
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