Space Oddityをかたわらに、"潜れ"!_"Valerian and the City of a Thousand Planets"(2017)
かつてのキャノン・フィルムズ同様のB級アクション映画の濫作の挙句、経営が傾いたリュック・ベッソン率いるヨーロッパ・コープが社運を賭けて「フィフス・エレメント」の夢よもう一度…とばかり、2017年に全世界相手に送り出した「ヴァレリアン 千の惑星の救世主」。
映画は見事に大コケし、ヨーロッパ・コープは2019年、民事再生手続きを提出する羽目となった。
あらすじは以下の通りだ:
と、あらすじを書いてみると、ガチガチのスペースオペラで、実際見ればVFXをふんだんに使った美しいビジュアルと独特な世界観に魅せられるのは、間違いない。
ともあれ、
リュック・ベッソン。この人の初期作品を見ると、「潜る」ことの快楽に徹底的にこだわっていることが分かる。
「サブウェイ」で主人公は地下の住人に魅せられるし、「グラン・ブルー」では二人の男が潜水記録を競い合う。
「潜ること」には、「飛ぶこと」と同じく、権威・権力・規範から抜け出し自由を希求する強い力が込められている。だから、この人の初期作品には、まるでスピルバーグの「とにかく飛んでいる」80年代の作品を見ているような、ふわっとした快感があるのだ。
そして自らの意匠を隠した90年代の「ニキータ」「レオン」にも、90年代スピルバーグ作品の様な、浮つかずとも重厚な快楽がある。
リュック・ベッソンは本作において初期作の精神に立ち戻り、スペオペという有象無形のおもちゃの海の中を「潜る」ことに徹底的にこだわった。
ヴァレリアンとローレリーヌは外宇宙からアルファ宇宙ステーションへ、ステーション外郭から中心部へと、ひたすら坩堝の中を「潜っていく」。潜れば潜るほど、未知なる世界、新しい世界線が見えてくる。
これはまるで、複葉機に乗って高度を上げていく毎に、どんどん地平線が拓けていくような感覚だ。気持ちよくないはずがない。
ちょうど、スピルバーグの「レディプレ」でキャラクター・グッズの海の中を飛ぶような、あらゆるものを超えていく快感がある。
もう一つ、ベッソンが本作でこだわった要素がある。「目の前の壁に穴を穿つ」ことだ。
従来の彼の作品では、「穴を穿つ」ことは「逃亡する」手段でしかなかった。例えば:泣き虫ニキータはダクトを通ってソ連大使館から脱出するし、レオンは壁に穴を開けてマチルダを寄宿学校へと逃す。
本作では、前に進む目的のために「穴を穿つ」。
十重二十重に隔離壁で内部が入り組んだアルファ宇宙ステーション。その中を、ヴァレリアンとローレリーヌが駆け巡る。
ヴァレリアンが音信不通となることもある。ローレリーヌが囚われることもある。
その度に一方がもう一方の手を引っ張って困難から脱出し、二人息を合わせて隔離壁を打ち破りながら、ステーションの核心へと近づいていく。
それは、まるで熟れたリンゴの皮を一枚一枚むいていくような感覚。剥くこと自体の楽しさと、中身を早く見たいという待ち遠しさの二つが合わさっている。
はたして最後には、みずみずしい果実:未知との遭遇が、ステーションの核心部で、二人を待っているのだ。
「潜ること」「穴を穿つこと」:本作は、この二つの武器を携えて、刺激と暴力に溢れたハリウッド映画の定型を破り、不寛容の時代に穴を開けようとする、リュック・ベッソンの壮大な野心作だったのだ。
その意気込みは「地球に落ちてきた男」デヴィッド・ボウイの歌声で始まる冒頭部からもわかる。こんな俗世間的な多幸感に満ちた「つかみ」が、従来のSF映画にあっただろうか?
「Space Oddity」を伴奏に、様々な国家の宇宙船、異星人の宇宙船がコンタクトの上、たがいに結合し、蜂の巣のように拡張、肥大、やがては一つの独立したネイションと化すまでを「つかみ」として追いかける。
そして物語は、西暦2740年、一千もの種族が居住する"千の惑星の都市"「アルファ宇宙ステーション」として外宇宙に射出される、まさにその前夜、ステーション内に流れる下記のアナウンスから、始まるのである。
そして、ヴァレリアンとローレリーヌもまた、大冒険の果て、アルファ宇宙ステーション同様に、未知の世界を目撃し、新たな旅立ちを得るのである。