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騒乱の新宿、こころの叫び。白昼夢の歌のえいが「書を捨てよ街に出よう」。

日本のアンダーグラウンド運動を牽引した寺山修司によるドギモを抜く映画だ。

なにせ、冒頭からかっ飛ばしてくる。 暗い画面で煙草に火を付けて

そっち(客席)は禁煙なんだろ?こっち(映画の中)は自由だぜ

と、第四の壁を突破して、どもりの青年(これが主人公)が語りかけてくる。

映画の中になんか何にもないんだよ!俺は誰なんだ?

と叫ぶ青年。

俺の名前は…!? 俺の名前は…!? 俺の名前は…!?



これが映画だ! 俺の物語だ! と宣言して、アバンギャルドな映画は始まる。

STORY
主人公である"私"が東北弁で語りかける。映画を観る者を挑発的するファーストシーン。そして空にあこがれて失墜した少年の死亡記事。"私"の声が虚しく響き渡る。万引き常習犯の祖母、戦争犯罪人の父、ウサギにしか心を開かない妹。行き場のない鬱屈した情熱を持て余し、"私"は奇妙な人々と出会い、幻想と回想の入り混じった街を放浪する。典型的にダメな家庭に育ち、いつも家出を考えている“私”と、恵まれた環境に身を置く“彼”を軸に、当時の若者の心情をとらえた<家出の思想家>寺山修司初の35mm長編作。
STAFF
●制作・監督・原作・脚本:寺山修司
●製作:九條映子
●撮影:鋤田正義
●撮影補佐:仙元誠三
●美術:高松次郎、林静一、榎本了壱
●編集:浦岡敬一
●作曲:クニ河内、加藤ヒロシ、田中未知、荒木一郎
●音楽:下田逸郎、J・A・シーザー、柳田博義
CAST
●佐々木英明
●斎藤正治
●小林由起子
●平泉征
●森めぐみ
●丸山明宏
●新高恵子
●浅川マキ
●鈴木いづみ
●川村郁
●J・A・シーザー
●クニ河内
●チト河内
●川筋哲郎
●蘭妖子

キングレコード  公式サイトから引用

冒頭でどもっていた主人公の少年:北川英明は、一人の妹、父親、祖母と四人で東京都電傍の貧しいアパートに住んでいる。彼の家族は、少年のいうところ

ばあさんは、万引き常習犯の亀の子たわし。
父親は、戦争犯罪人の負け犬。
妹は、にんげんキライのうさぎヘンタイ。

少年は、当然そんな関係の家族に愛着などもてず、町へと出てさまようわけで、そうした彷徨のなかでの彼の経験を追う、いちおう筋書きはそんなところだ。


だが、あらすじを追うことに意味はない。 強烈な絵が先行するからだ。
当時、闇を抱え込んだ祝祭の町、多種多様な人々が集う異種混交の文化の結節点だった新宿で撮影されたゲリラ的映像のコラージュ。あるいはセットを組み上げて作った演劇的な実験的映像。口ずさみたい歌と台詞で練り上げたある種ミュージカル的展開。訳が分からなくても、その断片を浴びることに、本作を観る意義がある。
個人的に強いインパクトを受けた、複数のシーンを取り上げよう。
映像と語りがシナジーを生んで、とてつもないエネルギーを放っている。


たとえば、主人公が東京都電の上を必死で走って新宿へ向かう、家族への文句をぶちまけるシーン。

とぶんだ!とぶんだ! 俺は人力飛行機で飛ぶんだよ! 飛ぶんだ!飛ぶんだ!

手持ちカメラで後ろ向きにダッシュしているものだから、フレームからほとんどハミ出ちゃってる主人公、爆走という言葉が似合う衝撃的なシーン。


たとえば、画面一面の星条旗が燃やされつつ、びりびりに焼かれた向こうに、にゅっと顔を出す佐藤A作のお面を被った男たち。ここにロックな挿入歌が流れる。

ひとこと煙草にもの申す  
ピースって言うけど、平和じゃない  
吸えば火も出るけむりも出るよ

「ピース〜ダダダ」(作詞・寺山修司、作曲・石間秀樹)

当時のタバコの銘柄「ピース」と掛けた、暗示的で挑発的な歌詞。
このあと「青年のための麻薬入門」たる、保守派の気分を更に逆撫でするカットが差し込まれる。


たとえば、路上の雑踏に立つ一人の若い女性が、男根に擬せられたサンドバックを助手の男にもたせ、街行く人々に、それを殴るよう呼びかけるシーン。

腹が立つのよ。何だか分けわかんないけどさぁ、毎日毎日腹が立って腹が立ってしょうがないのよ。そいでさあ、腹が立ったときさぁ、こう、そのままにしておくの、よくないと思うのよね、
そいでさあ、みんなのためにねぇ、このサンドバックをねぇ、一つぶら下げておいたの。そしてねぇ、この盛り場にぶらさげて「どうぞ腹の立つ人は、これを力いっぱい殴ってください」っていう袋・・

たちまち公安に取り囲まれ途中までガンバルが流石に遁走。場所を変えて:歩道に吊されたサンドバッグを面白がって殴る通行人。これをどこぞのビルの屋上から隠し撮りである。


たとえば、主人公が娼婦になかば強引に性行為に引き込まれていくシーン。耳なし芳一よろしく梵字で埋め尽くされた布団の上で、快楽とも苦痛ともつかぬ表情を浮かべる主人公。
そこに重なるのは、J・A・ シーザーによる楽曲《東京巡礼歌》。
作曲者自身が「ご詠歌」のようだとも「呪術的」だとも認めていた音楽に、読経の声と泣き声とが加わって、呪怨の中、主人公の表情の中に「人間の性」という業がにょきりと顔を出す。


たとえば、田園風景を背景にテキヤの格好をした男たちが、高倉健への賛歌を歌うシーン。

健さん、愛してる。
おしっこくさい場末の 深夜映画館 棒つきキャンデーなめながら。
あんたが人を斬るのを見るのが好き。死んでもらいまひょ。
死んでもらいまひょ。

同時代の反抗・反体制のイコンが、水田のなかに立てられたイラスト立看板になっている。いかがわしい。(JAの青年団の手による田舎の立看板は、宝島社「VOW」でかつてはよくネタにされていたものだ。)


以上、すべて洗練やクールとは程遠い、地虫たちの声の中に映画は終始する。
出てくる奴のほとんどがカッコ悪い。洗練やクールという響きから程遠い。

だけど自分をかなぐり捨てた表現であるのは間違いない、
だから映像に引き摺り込まれる。それでいて、屈折した感情を「ストレートに悪意としてぶちまけず」口の中でほぐして、言葉にして、それを映像に織り込んでいるから、凄まじいパワーを半世紀経った今でも放っている。なぜか映像に引きずり込まれてしまう、分かりたくなってしまう「白昼夢のような」映画。


最後に。この映画を「冷ややかに見つめる」我々を見つめ返す仕掛けを、最後に残している。
そう、映画を見つめる、スクリーンの中に何かを期待して生きている老若男女の眼差し、眼差し、眼差しを、カメラを横にワイプさせつつ切り取っていくのだ。
涙で潤ませているの、きっとこちらを睨み付けているの、視線を伏せがちなの、サングラスをかけているの、何の感情も感じられないの。

この眼差しの意味、それは
スマホの中に「ここではない世界」を求めている我々と、
スクリーンの中に別世界を求める半世紀前の彼ら。
ここに、何も違いはない ということなのだ。


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ドント・ウォーリー
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