「ベンジャミン・フランクリンが今日生きていたら、凧あげの資格を有してないと、牢獄に放り込まれたでしょうね!」_"Tucker: The Man and His Dream"(1988)
「Winny」みたいな映画が見たければどうぞ、あるいは「Winny」じゃ物足りない方におススメの一作:
1988年に公開されたアメリカの伝記映画で、映画監督フランシス・フォード・コッポラが監督し、ジェフ・ブリッジスが主演した作品「タッカー(原題:Tucker: The Man and His Dream)」より。
映画は1940年代のアメリカを舞台に、実在の自動車製造業者プレストン・タッカー(ジェフ・ブリッジス)が彼の自動車メーカー「タッカー・カー・コーポレーション」を設立し、革新的な自動車「タッカー・トラントラ」を開発する過程を描く。
タッカーの自動車はその時代に比類ない先進的な設計を持ち、安全性や快適さに優れていたが、彼は大手自動車メーカーとの競争や政府の規制、資金調達の難しさに立ち向かわなければならなかった。
どうです、この筋書き、ビビッと来るでしょ?
とはいえそこはコッポラ。日本人が撮った「Winny」のような終始生真面目な感じではなく、コッポラ好みの派手で豪華絢爛でありながらメッセージ性が強く、全方向に完成度の高い、エンターテイメント性に満ちた、スクリーン向きの映画作品へと仕上げている。
車の話なのに、なぜ本記事のサムネが「雷」なのかって?それは「結」まで見てのお楽しみ。
起:ことのはじまり。
プレストン・トマス・タッカーは1903年に生まれた。彼は、生まれながらのアイディアマンだった。第二次世界大戦前夜には、装甲車Tucker gun turretを自ら開発、陸軍にプレゼン。軍には買い取ってもらえなかったが、銃座だけは買い取ってもらい、これを機に軍需工場を設立、私財をなす。
第二次世界大戦終了後の1945年、タッカーは新会社Tucker Corporationを設立。来るべき新時代にふさわしい、速くて美しく、しかも安全性を追求した乗用車の開発に乗り出した。すでに米国自動車業界はビッグ3に独占されつつある一方で、ハドソン・モーター・カー・カンパニーのようにまだまだ新規参入者の余地があった時代。山師という名の自動車屋はゴロゴロいた。
そんな山師たちを警戒してか、タッカーが「夢の車」の話を切り出しても、銀行家は見向きもしない。家族にはそれを「百戦錬磨だからね」云々とごまかして、戦後はもはや不要な存在となった装甲車に乗って街へと繰り出す様が、なんかカッコいい。
エド・ウッドみたいな印象を与えるタッカーは、(後述する、大量生産のための施設探しにおいて)「映画業界や航空業界への関与の面で同類ともいえる」ハワード・ヒューズ御大と、ハーキュレイズの格納庫で対話。鉄板ほか資材を多数所有し大出力のエンジンも製造できるヘリコプターメーカー(Aircooled Motors)を買収先として紹介してもらう一幕がある。方や成功できなかったタッカーに、方や成功したヒューズ。さながらエド・ウッド対オーソン・ウェルズの構図。両名共に名前は後世に残した文脈でも共通。
タッカーの周囲には様々な人材が集ってくるのだが、エドと異なるのは、間違いなく一芸に秀でた人材が続々集まってくるということ。
実は銀行詐欺で収監されていたマネージャー。空軍を退役し大学時代学んだ自動車工学を活用するカーデザイナー。その他、意思疎通の取れたタッカーを慕う職人たち。
とりあえず話題先行で資金をかき集めるタッカー、なかなか開発が進まない製作陣。タッカーは工場に現れては、彼らに次々とひらめきを与えていく。
承:トラブルだらけのタッカー48プレミア。
1947年7月19日、3000人の観客を前に、タッカーは自社工場前で、試作車タッカー48のお披露目のプレミアを開催する。ショーマンなタッカー、観客の期待をあおるそれは長い長い前口上を述べる。
なぜなら、試作車はまだ完成していなかったから。
なんとか表に出せる形になったところで、しかしタイヤがひっかって動かない!必死に押し込んで表に出そうと、裏方たちのオイル塗れの奮闘が喜劇的だ。
やっとステージに出せる!
その一歩手前で、なんと試作車はオイル漏れ。
やむなく順延、時間稼ぎに必死なタッカー、怒る観客、もうダメだと顔を覆う重役、
ところがこのタッカー、恐るべき男、観客の怒り交じりの興奮を、期待へと見事に転じさせてしまう人たらしなのだ。最初は立ち去ろうとしていた観客たちも、足を止めて、「もう少し待ってみよう!」という気にさせてしまう。
かくして、期待を煽るだけ煽ってやっと人目に出たタッカーは、大喝さいを浴びる。注目を浴びたのは、その革新的な設計。センタードライブ(中央配置の運転席)に3つのヘッドライト(左右のヘッドライトがステアリングに連動し、角を曲がる際に照らす仕組み)に流線的な車体。
「これが未来の車だ!」いや「これが未来そのものだ!」と確信させるに相応しいデザインだ。
余勢を買って、全米巡業に出かけるタッカー。タッカーJr.もタッカー48に魅せられ、一流大学の合格を捨てて、製作陣に加わる。
大衆のニーズは高まるばかり。あとは大量生産のラインに乗せるだけだった。万事順調のはずだった。万事。
転:誰が天才を殺すのか?
タッカーは、Tucker Corporation設立にあたって、外部から経営者・役員を招き入れていた。役員の中には元々ビッグ3の出身者もいて、そうでなくとも保守的な彼らは、タッカーの独創的な試みを警戒する。タッカーを全米巡業に送り出したのも、彼をTucker Corporationの経営から引き剥がすための策謀。
タッカーは、いぬ間の洗濯で重役の一人の手でタッカー48のデザインが書き換えられたことに、激怒する。重役の言い分は「1000ドルで高性能の車ができるわけがない!」製造・開発ラインを握るタッカーはー職人魂で作ってみせる、これを見事に論破する。
タッカーを操縦できないと知るや、彼を嵌める、つまりタッカーに関する根も葉もないうわさを立てることにする重役たち。全米国民が視聴するラジオ・ショーでタッカーを山師呼ばわりする。基準に満たない自動車を開発していると噂を流し、検察の手で逮捕させようとする。
もちろん、この程度でタッカーはめげる男ではない。タッカー48を走らせて、警察のパトカーに自らを追わせる、そして警察署に乗り付けながら「 スピード違反で 」逮捕され、タッカーの手錠姿を撮りたいとてぐすねひいていた新聞記者たちに意趣返しを行うシーンは、カッコいい!の一言だ。
しかし、タッカー本人がめげなくとも、真実を知る由もない大衆は、一方向的な報道に流されるまま、次第にタッカーアンチあるいは批判・中傷・嘲笑の対象としてみなすようになっていく。
待ってましたとばかり自動車業界が圧力をかけた…かどうかはわからないが、ともかくタッカーは「ありもしない車を売ろうとした詐欺師」に仕立て上げられ、法廷に立たされる。
結:勝負に勝った。 空しいか? いや。
有罪にできなかった場合の保険として、タッカーが払い下げてもらったAircooled Motorsの権利は、プレハブメーカーに勝手に売り渡されてしまう。つまり裁判に勝とうが負けようが、タッカー48は大量生産絶対不可能の運命。せいじのせの字も言わなかったタッカーも、さすがに失望の色を隠さず、同志たちにこう告げる「これが政治だ」
とはいえ、タッカーは、タッカー48は、自身の名誉を法廷の場で証明するための準備を着々と続ける。
タッカーは重役たちの言い分が事実無根なのを見抜き、残された証券をベースに潔白を証明する文書徹夜でタイプする。職人たちはタッカー計50台の製造に挑む。
タッカーが「追い込まれる」感情に入った時、めちゃくちゃ赤い夕焼け空に世界が染まる、心のいろをそのまま塗りたくる、コッポラらしい美しい情景が広がる。
さて被告人となったタッカーは、皮肉にもニコラ・テスラの肖像画が掲げられた法廷にて、最終弁論:陪審員席に向かって、自らの信じるアメリカの自由・正義・未来を訴える。後にコッポラ自身が手掛ける法廷劇「レインメーカー」の様な、ひとり潔白を訴える男の凛々しさ、美しさが際立つ。
はたして、醜悪な大資本対アメリカンドリームの一対一の勝負の結果は。タッカー50台の運命は?
本作は、コッポラの手堅い演出を、楽天的で明るく、実行力に富み、何よりを自由を求める、それでいて家族を大切にするスーパーマン:タッカーを好演したジェフ・ブリッジスと、当時現存していたタッカー48の実車50台の総出演が、見事に支えている。
「ゴッド・ファーザー」や「地獄の黙示録」に何ら劣ることのない、合わせて、豪華絢爛なバロックともいえる、傑作なのだ。