「そんなに走ってどうするの?」マイケル・マンが、男のロマンを厳しく見つめた映画「フェラーリ」。
知っているようで知らないフェラーリの歴史=エンツォ・フェラーリの歴史の一断面を、巨匠マイケル・マン監督が描いた、2024年夏の話題作「フェラーリ」。
未見の方、配信待ちの方のために、以下あらすじを追っていこう。
1898年生まれのエンツォは、自動車が加速度的な進歩を遂げている時代に、少年期を過ごした。自動車はエンツォの人生に大きな影響を与え、青年エンツォはアルファ・ロメオのレーシング・ドライバーになる。
「フェラーリ」の導入部、当時記録されたモノクロフィルムの趣向で挿入されるのが、まさにこの青年エンツォの世界。実写と合わせて違和感なしだ。
数々のレースを経験したエンツォは、やがてマネージメントやマシーンを制作する側へと移行。1929年スクーデリア・フェラーリを自ら主宰、アルファロメオの事実上のワークス・チームとして活動を開始する。組織的なレース展開をするエンツォは、名手アスカーリ、四輪ドリフトの生みの親ともいえるヌヴォラーリなどを擁し、ブガッティやマセラーティを相手に、多くの伝説を生んでゆく。
本映画で題材とされるのが、その伝説の一つ:1957年の公道レース ミッレミリアへの挑戦だ。ただしこれはあくまで物語の横線。
映画冒頭:赤信号が変わるのを待っていたエンツォ・フェラーリは、目撃するや否や自身を売り込みに来たスペイン貴族にしてレーシングドライバー、横顔がどことなくディカプリオ似のアルフォンソ・デ・ポルターゴの売り込みを、こう袖にする。
しかし、周回1分30秒切りを目標とした自らのチームのドライバーにトレーニングを課している最中、目の前で、ふとしたはずみでEugenio Castellottの身体が、事故って宙を舞う。ちょうど空きができた、ということで、アルフォンソを雇い入れることとする。安いCGの出来と相まって、ギャグなのかマジなのか、マイケル・マン耄碌したか?と期待値がダダ下がりした瞬間でもある。
四六時中スピードのことを考え貪欲な取り組みを続けるエンツォ。今は亡き息子の墓参りを行った次のシーンでは、日曜日のミサに参加している。
などと長ったらしい司祭のありがたい言葉を聞きつつ、妻は心から息子の冥福を祈る一方で、夫エンツォの心は現在進行形で行われているテストコースのレースにある:タイムウォッチを隠し持って、時間を計っている。ミサの静とレースの動の対比、シンプルだが心くすぐられるワンシークエンスだ。
市街レースは流石の臨場感。マイケル・マンが往年と変わらぬ冴えを見せつける。
それでも、フェラーリのチームは緒戦敗退。エンツォは喝を入れて、アルフォンソはじめとする自ら率いるドライバーたちを発奮させようとする。それはともかく、イタリアとあって、画面内に収められた消えものクロワッサンが、めちゃくちゃ美味そうである。なおもエンツォを追いかけて「僕なら勝てた!」と食い下がるアルフォンソに対し、静かに采配を下す様も、コンマ一秒のスピードを競うチームを率いるリーダーとしての厳しさそのものであり、さすがの一言だ。
さて、エンツォ・フェラーリには一人の息子がいた。
名をアルフレード・フェラーリという。愛称はディーノ。三十二年生まれの彼は、恵まれた環境の中で、父親の期待に応えるべく育ってゆくのであるが、筋ジストロフィーを発症し、1956年に24歳の若さでこの世を去ってしまう。ディノは、V6エンジンのプロジェクトに関わっていたことから、父親のエンツォは、このエンジンにディノの名を冠し、その死を長く悼んだのである。腹を痛めて産んだ正妻ラウラがそれ以上に悼んだのは、言うまでもない。
物語の副軸…にみえて実は本軸なのが、この実子を失ったフェラーリ夫妻の静かな悲痛に諍い、それはそれとしてこっそりエンツォが戦後に作っていた隠し子:ピエロ・ラルディ・フェラーリの認知をめぐる物語なのだ。
糟糠の妻、エンツォを陰ながら支える良妻…という思い込みを越えて。
ラウラを演じるは往年の名作「ボルベール〈帰郷〉」で肝っ玉母さんもといぶち切れ母さんを演じた名優ペネロペ・クルス。
なので、観ていてわかるほど痩せやつれてはいても、その身体の中にははちきれんばかりのエネルギーがあふれている。夫の不義をただ耐え忍ぶだけの女性のはずがない!
隠し子を生んだ愛人:リーナのところに足を運んでいると察するや否や、護身用の銃をエンツォめがけてぶっ放すシーンは、本作でもっともドキドキするシーンと言えるだろう。カーレース以上に。
一昔前の価値観でいえば「悪妻」だが、そこはエンツォも欠陥だらけの人物。エンツォの経営センスの無さを、ラウラが経理で守っている感すらうかがわせる描写も存在する。
そもそも、エンジニアの思考らしく「ロジックで重い病気も治ると信じて」血液検査ほかのスコアの推移を記録していた:なすべきことはすべてやったと、どこかサバサバしているエンツォに対して、妻の遣る方無い思いは癒されない:二人の溝はどこまでも埋まらないのだ。
それでも、夫婦であることをやめることは、できない。
そして終盤、結果として公道レースとしてのミッレ・ミリアを終焉と導く大事故:タイヤのパンク一つで沿線の観衆を殺傷する事故が起こる。
事故当時の現場写真をそのまま再現したような、真っ二つに裂かれるアルフォンソの身体と死屍累々の有り様に、今まで「ボケたかな?」とマイケル・マンを思っていた私、ここからがマイケル・マンの描きたかった内容であることを知る。贖罪とスピード。妻が果たしたかったこととエンツォが求めたことの相克。全ての脚本、筋書きが収斂する瞬間だ。
「グランツーリスモ」ではあっさり処理された、モータースポーツが引き起こす事故と闇、責任の所在を容赦なく描いたのが、本作のみが持ちうる価値。それを表現できたのは、マイケル・マンがモータースポーツを愛しているからこそだ。
本作のクライマックスは:ひっきりなしの電話線も切って、ひとり明かりをつけない家で待っていたラウラと、エンツォの、会話だ。賠償その他の支払を予感して、小切手を現金化(=銀行に一部経営権を上譲渡)した事をなじる夫に、静かに妻はこう返す。「経営者としての説明責任をいい加減果たしてほしい」と。
結論。本作は、本妻と愛人とモータースポーツのトライアングルの中をあっちへこっちへふらふらしまくるエンツォを差し置いて、亡き息子への悲嘆に暮れる妻、それでいて夫が起こした会社は守ろうとするラウラが、物語の縦糸どころか主軸なのである。
ここに、やはり1960年代イタリアを舞台にした巨匠フェリー二監督の映画「甘い生活」を思わせる、容赦ないパパラッチたちの激写猛攻が華を添えている。口が軽くてふかしたがるエンツォは、格好のメシの種だ。
「フォードvsフェラーリ」とも「ラッシュプライドと友情」とも異なる、冷水を浴びせる様な伝説の描き方には賛否あるだろう。
しかし、わたしは、自動車がどこまでも速く走りたいという人類の夢を背負わされる:その見果てぬ夢に向かって邁進するエンツォ=従来のモータースポーツであれば賛辞一辺倒になったであろう男のロマンを、ラウラというキーパーソンを配置して客観視しようとするマイケル・マンの切り口を、全面的に肯定したい。
何より、「スターウォーズ」以降、ヘンな…もといアーティスティックな映画出演に挑戦し続けるアダム・ドライバーのペネロペ・クルスに一歩も引かない老け役:理髪店や喫茶店でイタリア人に混じり、自家用車を押して走らせ、イタリアの風景にすっかり馴染んでいるのを見るにつけても、「見てよかったな!」としみじみ感じることが出来るのだ。
モータースポーツを愛するファンは、選り好みせず見ること、いいね?