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戦争映画の臨界「炎628」_目が口よりものを言う、来たりて見よ。
現代の視点から見ると、80年代ほどノンキな時代はなかったと思う。
核の傘を前提にして、世界中の人間が生きていた。
アメリカの庇護、ソ連の庇護が、絶対的な秩序をもたらしていた。
(日本のバブル経済も対ソを意識したアメリカの庇護を前提に、成立していた)
核戦争は怖いけど、平和な世界はこの先も続くだろう。これも冷戦のおかげ。
アフガン?遠いよ。 アフリカ?野蛮。 WW2?昔そんなのもあったね…。
独裁政治は、共産主義のせい。 社会の不平等は、資本主義のせい。
などと、ノーテンキに東西問わず先進国の人間が、イデオロギーの二項対立で思考を放棄していた80年台後半に、全世界に人間悪を問いかけた戦争映画がある。
人間悪を睨みつける、じゃがいも顔の少年のまなざしが、全世界を射抜いた。
80年台前半まで、ソ連映画には自由がほとんど無かった。すべてが、ソ連邦国家映画委員会 (ゴスキノ )によって統制されていた。個々の映画作品の製作決定 、完成までの各段階における検閲 、作品公開の可否の決定 、そのランク付けとプリント本数の決定、枝葉末節、なにからなにまで統制されていた。
ペレストロイカが進むと一転、自由な映画づくりが、許されるようになった。
その恩恵を受けた作家の中には、当時52歳のエレム ・クリモフも、いた。
彼が手がけた大作『ロマノフ王朝の最期』は1968年に製作中止を言い渡されて74年にやっと完成 、またも当局にお蔵入りを食らって81年に公開決定している。
検閲の中で、これ以上ない程の苦渋を味わった人物だ。
それでも彼は、世間というものに対して妥協しなかった。
1977年に企画として動き出し、1984年、ようやく当局の撮影許可の下りた「戦争映画」。
当時、ソ連の戦争映画の定番といえば、以下二つのどちらか。
独軍の猛攻に耐えて反転勝利するソ連軍の栄光描くエンターテイメントか。
兵士の苦難、銃後の母の苦しみに寄り添うヒューマンドラマか。
そのどちらも、選ばない。 自分なりの「戦争」を描いてやる。
エレム・クリモフは、全力を注ぎ込んだ。
この世界の悪を告発する、一言の反論も許さない強さを持って。
だから本作には、あくどいも糞も何もない。 ただ、腐臭だけがする。
[あらすじ]
1943年。ドイツ軍に占領されていた白ロシアの小さな村。フリョーラは砂山から掘り出したライフル銃を手に、周囲の反対にも関わらずパルチザン部隊に加わった。彼はキャンプ地の深い森の中で金髪の美少女グラーシャと出会った。二人は折からの空爆を避けて、フリョーラの家へ逃げ込む。しかし、家の中は空だった。周囲を被う死の気配を察した二人はあわててかけ出した。裏庭には夥しい死体の山。恐怖と戦標で気も狂わんばかりのフリョーラは、さらに同じ村でただ一人生き残った瀕死の村長の口から、子供がパルチザンに加わったから村全員が皆殺しにあったのだ、と告げられ衝撃をうける……。
翌日、食糧調達に向かう部隊に同行するフリョーラ。またしても銃火が襲う。何とか難を逃がれ彼は近くの村へもぐり込んだ。しかし、この後、起きたのは筆舌に尽くしがたい事実だった……。
[スタジオ/製作年]
モスフィルム+ベラルシフィルム・1985年製作
[スタッフ]
原作・脚本:アレシ・アダモーヴィチ
脚本・監督:エレム・クリモフ
撮影:アレクセイ・ロジオーノフ
美術:ヴィクトル・ぺトロフ
音楽:オレーグ・ヤンチェンコ
[キャスト]
フリョーラ:アリョーシャ・クラフチェンコ
グラーシャ:オリガ・ミローノワ
コサチ:リュボミラス・ラウツァヴィチュス
ルベージ:ウラダス・バグドナス
ロシア映画社 公式サイトから引用
ひとことでロシア人、スラヴ民族と括っても、そのルーツは多種多様だ。
本作はベラルーシで撮影、現地の住人(その多くが役者経験のない素人だった)を起用したのもあって、異常なリアリズムが漲っている。
トップ画像をご覧の通り、主人公:フリョーラはアジア系の血を引くじゃがいも顔だ。ヒロインのグラーシャすらどこか芋っぽい顔をしている。
金髪で筋骨隆々で顔立ち整った美男美女? 実際の前線にいる訳が無い。
このベラルーシ=ドイツによる侵略の最前線、に起こった悪夢を再現する試み。
クリモフはこだわり抜く。人間性の悪にとことんまで接近しようとする。
後半数十分のえげつなさ、これは人間の醜さに吐き気を催させるほど。
戯れ半分、ジェノサイド。
教会の中に集めた村の住民たちを始末するため、
火炎瓶や火炎放射器で教会の建物に火を放つ、炎の中に消えてゆく悲鳴に死者の数を数え、村の家畜や女性を略奪し、家々にも面白半分に火を放つドイツ兵。
とどめとばかり、機関銃をぶっ放して、明らかにジェノサイドを行う。
彼らには、罪の意識というものがない。
人間悪をこれほどまで堂々と白日に晒す恐ろしい展開を、私は知らない。
しかし本作が真に恐ろしい瞬間は、次のシーンに現れる。
「ごめんよ。 ほんの火遊びのつもりだったんだ。」
パルチザンは、生け捕りにした当事者たるドイツ兵をぐるりと取り囲む。
ドイツ兵たち、みな、憑物が落ちて、虚脱した表情。
ドイツ軍に命じられた、仕方なかったんだと懇願するロシア人協力者。
命欲しさに「俺はナチスと無関係だ!」と狂った叫びをする将校。
その他の兵士たちも、「俺のせいじゃない」と互いに罪をなすりつけ合う。
唯一、ドイツ兵たちを睨み付ける(少し目を伏せている)のが、このジェノサイドを指示した指揮官だ。
アーリア人の優等性。それ以外の民族の劣等性。彼らが支持する共産主義の劣等性。劣等民族には未来がないこと。だから未来を育む子供を殺すことには正当性があるということ。 これを通訳である協力者を介して堂々と主張する指揮官。
どちらにせよ、ドイツ兵たちに加害者としての罪の意識はない。
彼らにあるのは、報復されるかもしれないという、恐怖だけだ。
ドイツ語からロシア語に訳すうち、通訳はびくびく震え、唇が硬っていく。
いや、怯えているのはドイツ兵のすべてだ。彼らの目を見ればよく分かる。
方や、ドイツ人を憎悪の目で見るパルチザンと生き残りたち。フリョーラ少年は、怒り心頭だ。 目、目、目 の強烈なクロースアップ。
遠くから、火をつけた松明を運んでくる男がいる。
「生きたまま燃やされる」恐怖に駆られ、
「俺はドイツ人じゃない!」と絶叫する通訳。 他の兵士もそれに続く。
「だから命だけは助けてくれ」と。
フリョーラ少年は、何も言わずにガソリンのタンクを彼らに渡す。
我先にタンクを奪い合い、互いで互いにガソリンを掛け合う兵士たち。
他の奴が死ねば自分だけは助かる、という一分に賭けるかの様。
彼らは命欲しさに、さっきまで味方だった連中を踏みつける。
ここまで命を惜しむのか。あまりの見苦しさに目を背けつつ、パルチザンたちは優しく機関銃を掃射してやる。
致命傷を外れた者もいる。
少し間を置いて、第二射。 これでみな、息たえる。
松明を持った男が到着する。
「俺も、このドイツ兵と同様にならずに済んだ」という一分の安心と、九分のやるせない憎悪を顔に浮かべて、水溜りに火をつけた松明を捨てる。
ここまでは「えげつないフィクション」。
しかし、クリモフは、そこから一歩進んで「これが現実だ」と我々に機銃掃射を行う。フィクションから現実に向かって引き金を引く。
憎しみの引き金を引く。 総統の顔を撃つ。
憎しみも愛も、何も知らなかった少年が、戦争の邪悪に取り込まれていく。
この構図は「僕の村は戦場だった」と同じ。
ただし、フリョーラ少年は、イワン少年の様に、顔で嘘を付ける人物ではない。
じゃがいも顔の少年が、あまりの悲惨ばかりを目の当たりにして、瞳孔ばかりが広がっていく:目に焼き付いて離れなくなった証拠。
そんな彼が、最後に目力で射抜くのが、
川の底に沈む、敵国の最高権力者の写真、「総統の顔」だ。
水溜りに沈んだ総統の顔を、手持ちの銃で撃つ。
瞬間、歴史が巻き戻る:電撃戦、空中線、戦争前夜のナチスの台頭、アウシュビッツ、崩落する建物、ニュース映画の断片の逆再生。
戦争を一個人の歴史を、弾劾する。
と同時に、逆再生されることで「過去」もまた、「過ぎ去った時代のこと」の枠組みから、解体されてしまうのだ。
過去が、現代へと奔流する。 過ぎ去った時代のことでは、なくなってしまう。現実のこととして、見るものにひたすら突きつける。
何度も何度も繰り返し再生される総統閣下の顔、閣下を歓迎する集団の笑顔。
ドイツ人全てを睨みつけて、少年は何度も総統の顔を撃つ。
あとには、ドイツ人を、骨の髄まで憎み切っている一人の少年兵だけが残される。彼は、仇なすドイツ人を殺すため、次の戦場へと向かう。
そして、本作の企画段階でのタイトルは「Kill Hitler」だった事実がある。
公開当時(1985年) 本作を目撃したとある観客の言葉が、今に残っている。
Infamously at one of the film’s after screening discussions an elderly German lady stood up and
declared “I was a soldier of the Wehrmacht; moreover, an officer of the Wehrmacht. I travelled through all of Poland and Belarus, finally reaching Ukraine. I will testify: everything that is told in this film is the truth. And the most frightening and shameful thing for me is that this film will be seen by my children and grandchildren.”
※Wehrmacht・・・ドイツ国防軍
THE STATE OF THE ARTS から引用
目が口よりものを言う。
戦争は過去のことじゃない、人間が生まれつきもつ悪によって
今も、未来も、この先ずっと、この地獄絵図が繰り返されるのだ。
安住できないところへ、僕らの心を引き摺り込んで、映画は終わる。
※本記事の画像は、Criterion 公式サイトから引用しました
余談だが、エレム・クリモフの妻で同じく映画監督のラリーサ・シェチピコの「処刑の丘」も凄惨だ。ドイツ人将校が、焼印を捕虜の胸に押し当てるシーンがある、といえば分かるだろうか。
「真の絶望とは生き残ること」とのレビュータイトルが、重い。
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