ドレイファス「俺は死んだのか?」ヘップバーン「その通り。」_"Always"(1989)
80年代、まだまだスティーブン・スピルバーグは少年だった。自分自身憧れたもの/憧れているもの以外をテーマとする時、筆がまるで進まない。逆に憧れを描く時、彼の演出は「映画を見る際のときめき」にきらきらと輝く。
43年製作の「ジョーと呼ばれた男」(日本未公開)のリメイク版であり、仕事中に死んだ森林火災消火隊員が、なおも恋人を見守り続ける姿を描くファンタジー・ドラマたる「オールウェイズ」は1989年製作作品、スピルバーグの二面性が丁度くっきり出てしまった作品だ。
彼が熱を上げたのは2つ。ひとつは勿論「飛行機」。もうひとつが「オードリー・ヘップバーン」だ。
消火用飛行機のパイロットであるドレイファスは、発進前のに恋人へプロポーズするという、あまりにも分かりやすい死亡フラグを立てる。ぜんぜんお約束で、空に舞った乗機は爆散する。あっさり死んだドレイファスは、焼け焦げた森の中をひとり彷徨う。歩いても歩いても人っ子一人いない殺風景が続く。ダンテの煉獄:死と生の境目の世界だからね。幾多の困難を乗り越えた空の戦士といえど、突然世界が変わった驚きと不安で堪らなくなる。
ふと木と木の間に鹿が現れる。その鹿が導いたかのように、そこだけ焼けていない、若芽と新緑が青々しく生えた開けた場所に出る。
優しく彼を出迎えるのが天使:オードリー・ヘップバーンだ。
ヘップバーンが演じる天使のファッションは、白いセーターに白いデニムというシンプルさ。シンプルだからこそ体のラインがくっきり出る。
それを容易く着こなしてみせるのが、さすがどんな衣装でも不思議と身体にぴったりと合ったヘップバーン、と言うほかない。
そして白無垢の衣装と、「パリの恋人」の頃の無垢な感じが前面に出た礼儀正しさと品性が合わさって、あたかもヘップバーンが天使を演じているのではなく、天使がヘップバーンであるかのような錯覚すら覚える:うっとりしてしまうのだ。
彼女の手によって、ドレイファスは黄金色の麦畑の風に乗せて初めて飛行機を飛ばしたときの思い出:「風立ちぬ」世界へと誘われる。宮崎駿の20年以上前である。
ドレイファスが「飛行機を飛ばしたのは俺一人の手柄だった」と誇らしげに謳うとき、ヘップバーンは囁く:「その傍に私がいたのよ」と。
ドレイファスとヘップバーンがふたり、麦畑がそよぐ中を仲良く並んで歩いていく。見た目は老いても心は若々しい二人の立ち姿に、うっとり見惚れる作品。「このままドレイファスとヘップバーンのラブストーリーに突入してくれれば…」と思えるほど。
果たして、そんなドレイファスとヘップバーンの何処かコミカルな会話から引用。
スピルバーグは、ヘップバーンがドレイファスを地上に返す所まで撮って、すっかり満足してしまったのだろう。その後の演出は精細を欠く。
致命的なのはキャスティング。ドレイファスのかつての恋人:ホリー・ハンターは「ピアノ・レッスン」ほどではないにせよどこか根暗さを隠せてないし、ドレイファスの後釜に座る男:ブラッド・ジョンソンに至ってはスターらしいオーラがまるで無い。
そして最後。ハンターとジョンソンがくっついたのを見届け、この世に心残りが無くなったドレイファスは、天国へと帰っていく。夜闇に包まれ先が真っ暗な滑走路の奥へと、一人寂しくとぼとぼ歩いて。ペーソスが漂う。
そんな暗い叙情はスピルバーグに求めていない。そこは滑走路に明々と灯るブルーライトの逆光の中ヘップバーンの天使が迎えに堂々とやってくる、天国への階段をVFXでかける、それぐらい派手なお出迎えをやれよ!と思う。
ヘップバーンと飛行機。スペクタクルなシーンは撮れるが、何でもない地道なヒューマンドラマが撮れない。80年代から90年代に移るにあたって、スピルバーグのぶち当たった苦悩が垣間見える。
しかしこの杵柄を活かしたか、スピルバーグは90年代「シンドラーのリスト」「プライベートライアン」「アミスタッド」にて、ヒューマンドラマの巨匠としての二つ名を得るのだった。
持ち前の演出力はそのままにどんなジャンルでも同等にこなせる「超一流の映画職人」となる過渡期、彼の迷いとそれでもなおきらめく美しさに溢れた、作品だ。