商店街のジングルベル
この間、久しぶりに生麩まんじゅうを買いに橋を渡った。
以前はゴールデンウィークから九月までの期間限定だったけれど、人気があるらしくて、いまはいつ行ってもお目にかかれるようになった。
たまに売り切れていると、揚げまんじゅうのお世話になることもある。
このお店の特筆すべきところは、いい意味で味と値段が釣り合っていない点にある。
生地に玉露か何かを混ぜているのだろうか、そのほろ苦さに口もとが緩む。
それでいて、なんと一個「百円」なのだ。
最近、甚だしく時系列に自信が持てなくなってきたけれど、ぼくがこの店に通いはじめた二十年ぐらい前からずっと変わらずではないだろうか。
生麩のもっちりした感触に、おっとりとした女性の上品さと色気を連想してしまうのは、ぼくだけなのだろうか。
この和菓子屋のある商店街は、道幅が細くて蛇行している。
このご時世で、週末に足を運んでも三~四軒シャッターの下りている店が並ぶ一角があった。
結構、以前は人通りがあって、気配りしながらの電動車いすの操作だった。
この間は、その代わりに自転車がかなりスピードを出して通り過ぎて行ったり、相変わらずの歩きスマホにすれ違ったりで、気を使う度合いは同じようなものだった。
先ほどの和菓子屋は後継ぎさんがいるようなので、しばらくは生麩まんじゅうを楽しめるに違いない。
夕食後のお楽しみで、生麩まんじゅうをいただいた。
これまでは、ひと口で贅沢に頬張っていた。
以心伝心サポーターのSくんとは、なんの打ちあわせもしているわけではなかった。
いつもなら、ポコンと放りこむところで彼はそれをしなかった。
麩まんじゅうが半分ほど口へ入ったところで、ひと呼吸置いたのだった。
ぼくも判っていたかのように、かぶりついた。
生麩まんじゅうは、Sくんの手とぼくの口の中のふたつに分かれた。
一か月近く前だっただろうか。
ぼくは焼きそばパンを頬張っていた。
すこし息が乱れた瞬間に、焼きそばのカケラが気管に入ってしまった。
噎せつづけているうちに、パンのかたまりまで吸いこんだ。
自力で口の中へ押し返すことができたけれど、かなり大きなパンが詰まっていたのかと思っていたら、意外なほどに小ぶりだった。
noteへ投稿しはじめて間もないころ、居酒屋でノドを詰まらせかけたことをきっかけに、お正月のお雑煮をどうするか、書いたことがあった。
なぜか、商店街にクリスマスソングが流れるようになって、よく似た出来事が起こった。
「起きてしまった」ではなく「起こった」と書いたのは、ぼくの気持ちに整理がついているからだろう。
今年のお正月は「案ずるより産むが易し」で、例年通りにお餅を頬張った。
ただし、つぎのお正月はどれぐらいの大きさが適当か、試行錯誤しながらいただくことにしたい。
瞬時にあの世に逝けるのならうれしいけれど、これまで生きてきた長さと比べればあっという間でも、かなりの苦しみは予想される。
そう思うと、慎重さを優先させてしまいたくなる。
こうして、年々、お雑煮のお餅のひと口のサイズが小ぶりになっていくのだろうか。
さっき、登場した以心伝心サポーターのSくんと真夜中の長話をしてしまった。
発端は、ぼくの質問からだった。
「状況によって違うやろうけど、『体には悪いけどメチャクチャ旨いもん』と『体に良くてもそれほど旨くないもん』やったら、トータルしてどっちを選ぶ?」
彼の応えは意外に速かった。
「五年、十年前でしたら前者ですけどねぇ、いまは後者に変わりましたねぇ」
そのココロを訊こうとして、歯みがきの準備に行ってもらっているうちに、違う方向へぼくの気持ちが移ってしまった。
最近、ひとりで電子書籍のページをめくれるようになったり、ネット検索できるようになったりして、サポーターなしの時間をつくる工夫をしはじめた。
先日、ひとりでタブレットを操作できる状態を整えてもらって、泊まりのサポーターさんが来るまでの時間を好きな唄のプレイリストを組みながら過ごした。
ふと、考えたことがあった。
「いま、大きな地震が起きたら、ひとりの巻き添えもないよなぁ」
だから、ひとりの時間を増やしたいわけではない。
ただ、誰にも気を使わずに過ごしたい。大きな理由はそこにある。
もちろん、死にたいわけでもない。
洗面グッズを抱えて戻ってきたSくんに、こんな話をした。
ついでに訊いてみた。
「これって、クライ話か?」
「いいえ、逆の答えもふくめて、サポートが必要なひとり暮らしの障害を持たれた方だったら、どなたでも考えはることじゃないですかねぇ」
Sくん自身も、同じような暮らしをしていたら「考えるでしょうねぇ」と、想いをめぐらせていた。
そこから、また違う方向へ話が流れて行った。
「死にたいわけやないけどな」
前置きをくり返しながら、切なくて、アホくさいことで盛りあがった。
「最近、つくづく思うんや。友だちや好きなミュージシャンがどんどん逝ってしまうやん。見送るよりも、エエかげんに見送られたいわ。死にたい言うてるんやないで」
このあたりで、ぼくはなぜかナルシストみたいになってしまった。
「でも、ぼくが先に逝ってしもうたら、ようけ悲しむ人がいるかもしれへんなぁ。Kさんやろ、Nくんやろ、もうひとりのNくんやろ、Iくんやろ…」
悲しんでくれている友人たちを思い浮かべると、我ながらつらいものがある。
これを訊いていたSくんが、おもむろに言葉をはさんだ。
「名案がございます。適度に悪人を演じられたらいかがでしょうか」
たしかに、名案に違いなかった。
「適度な悪人」なら、悲しむ人は適度にふるい落とされる。
でも、あまり大きな支障にならない悪事とは、いったいなんだろうか?
会議をサボるとか、わざと何度でも買いものに行ってもらうとか、雨の日に遠出をつき合わせるとか…、残念なことに意図的ではないにしても、おおかたのことは経験済みになっている。
そして、「それがやっさん」だと、身のまわりの人たちは思ってくれている。
結局、ぼくはたくさんの人を悲しませないために、長生きを心がけなければならないみたいだ。
最後は自慢話みたいになってしまった。
昨日、四日ぶりに大便が出た。
もっと手こずると予想していたのに、頃合いの硬さでキバラなくてもオマルを差しこむとスイスイとこの世に現れた。
お昼間、車いすに乗れないほど腰痛がひどかった。
原因もひっくるめて、ちょっと気がかりになる。