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ひょうたんとクモ

 たったいま、ひとつ決めた。
 来年、初蝶とすれ違うころ、台所側の軒先にひょうたんを植えることにしよう。

 ぼくは子どものころから、ぶらぶらとるものが気になっていた。
 心理学的に分析するつもりはないし、それだけの知識を得ているわけでもない。
ただ、行き過ぎる風に吹かれているさまが気ままに思えて、とてもうらやましかった。

 決められた日課を受け入れていく施設での暮らしぶりに不自由さを実感してはいなくても、どこかで気ままさをもとめていたのかもしれなかった。

 ひとり暮らしを始めて、ひと夏だけプランターにゴーヤを植えたことがあった。
 前の家ではベッドから転げ落ちないように、隙間なく東向きの窓際にベッドを寄せていた。
 言うまでもなく、夏は朝早くからぼくの体は陽射しにあぶり出された。
目覚めるまでに、汗まみれになった。
エアコンをガンガンに使えるほど経済的なゆとりはなかったし、簾は築四十年を越える年季の入った文化住宅に似合いすぎていた。

 春先に南国育ちのヘルパーさんの提案がぼくの心を動かして、陽射しの入る軒先を「緑のカーテン」でメイクアップすることになった。
 南国ヘルパーさんのふるさとでは、若いヘチマを豚バラとみそ炒めにしたり、みそ汁に入れたりするらしい。
実際に両方ともつくってもらったことがあって、独特な風味と歯ざわりに魅せられてしまった。

 文化住宅の一角をメイクアップする緑のカーテンの主役は、ほぼ、ほぼヘチマが務めることになりかけていた。
 ところが、次週に南国ヘルパーさんがお宅近くのホームセンターで、苗から土や肥料まで用意する段になって、優柔不断なぼくの気持ちは、ゴーヤへと主役を交代させた。
 単純に、理由は夏バテ対策だった。
何年か前からゴーヤを食べるようになって、疲労感がとどまることがなくなっていた。
わりと育てやすいという情報も、主役交代の原動力となった。

 あの夏、ゴーヤにはお世話になった。
何本かのビニール紐の張った竿をかけ上がって、陽射しから窓を守ってくれた。いや、ぼくを守ってくれた。

 無用な書き足しをすると、ついさっきの「窓~ぼく」みたいな思い違いの取り消しをよく使う。気がついた時点では意識的に利用しようと思うけれど、最初から準備してクサイ芝居を打っているわけではない。ほんとうにカーソルが進んでから、「あっ、そうだったか!」とモニターを見つめながら苦笑いをしている。

 突然の寄り道から、Uターンする。

 次々に実ったゴーヤは、食卓の主役であり、脇役としても、まさに苦み走った存在感を発揮してくれた。
いちばんのお気に入りは、パッと湯がいて花かつおとお醤油であっさりといただく一品だった。
 とびきり、元気になれた。錯覚かもしれないけれど。

 今回の文化住宅のぼくの部屋には「窓」がない。
自宅で過ごすかぎり、お日さまにお目にかかることはない。
ベッドに横になった状態で左斜めに目線をおくると、ヘルパーさんが仮眠をとる四畳半に南向きの窓はあっても、袋小路の建て込んだ場所では陽射しなど入りはしない。

 ただ、台所の窓は路地に面していて、窓を開けていると家の中が丸見えになる。
かといって、閉めたままだと風通しが悪くて、炊事に支障が出てしまう。
 けれど、この文化住宅にも簾は似合いすぎている。

 とりあえず、いまは丈の短いカーテンで補っているけれど、来年の夏には緑のカーテンでメイクアップすることを思いついた。
書き出しにあるように、ほんとうに「思いつき」でしかない。
「決めた」とは書いているけれど。

 ひとり暮らしを始めてから、ひょうたんの存在は影もかたちもなくなってしまっていた。
 きっと、晴れの日も、雨の日も、風の日も、ちらつく雪の日も、ヘルパーさんとの待ち合わせ場所も、その時間も前日か当日に連絡を取り、気ままに「まち」を歩きつづけてきたからだろうか。

 現実を受け容れようとしていないのかもしれないけれど、もし、生まれ変わって「障害がなかったら…」などと考えるときがある。

 ぼくの理想は「できるだけ誰とも関わらずに生きる」こと。
山奥で自給自足の暮らしがしてみたい。

 「障害」を持って生まれたことに後悔はないし、たくさんの出逢いがあっていまの自分が成り立っていることに変わりはない。

 でも、これまでに経験してきた大小の悔しさを、ぼくは無意識に自分自身への期待として置き換えてきたのかもしれない。
 「期待」は周囲とのつながりの中で、大きくなっていく。

 三十年ほど前、友だちと淀の競馬場へ行ったことがあった。
初めての競馬場だった。
すべてのレースが終わって、ぼくの懐はすっからかんになっていた。
 晩秋の夕暮れは早い。カップルも、家族連れも、底知れず競馬にのめり込んでしまった男たちも、一斉に帰路を急ぐ。

 濃紺色の夕闇。
両手をポケットに突っ込みながら、肩をすぼめながら、タバコをくわえながら、一人ひとりが寡黙に歩いていく。その違いはあっても、黒ずんだ群衆が果てしない流れをつくる。

 朝の光の中で、男たちはペンを耳にはさみ、肩を怒らせながら、大股で先を急いでいた。予想に打ちこみ、一獲千金を夢見る定位置のポジションへ向かって。

 朝の光と夕闇が演出していたとしても、その光景はあまりにも対照的だった。
 朝とは違い、帰りは人波の密度が濃いくなる。
ぼくはコントローラーのレバーに指先を添えながら、黒ずんだ流れに身をまかせた。
人間が逃れられないごうの深さに、行く末を委ねているようでもあった。
 あのころの感覚からすればかなりの金額をつぎ込んで、なけなしになってしまったけれど、友だちの停めた川沿いの駐車場まで「充たされない幸福感」を抱きながら歩きつづけた。
 ぼくは魅せられてしまった。あの寡黙に流れていく黒ずんだ群衆に。

 世の中の常識からはぐれてしまいたくなるのは、やっぱり「障害」を携えてきた重みからなのだろうか。

 結局、引っ越してから二度目の市営住宅の申し込みもやり過ごすことにした。
去年、越したばかりだから、買い替えるものは少ない。
京都へ帰ることを検討したいとか、この町に来てからずっと行動範囲のメインだった下町から離れたくないとか、長年お世話になってきた作業所から遠くなるとか、周囲が頷きたくなるような口実をいくつか用意してみた。

 でも、前回の引っ越しのときのストレスが、精神状態の波を激しくさせ、慢性化させる要因のひとつになった。
ヘルパーさん一人ひとりは、ぼくの暮らしやすさを想って意見してくれるのだけれど。
 一年前とそれぞれの人との関係性が変わっていないから、もうこれ以上のしんどい思いをしたくはない。
 地震などの災害が気にはなっても、なるようにしかならない。
 しばらくは静かに、気ままに、ここで暮らす。

 この夏、ときどき夜になると小さなクモがベッドの上で佇んでいたり、ぼくの体を這いまわったりしている。
 頼むから、ぼくの体の下に潜りこまないでほしい。
押しつぶしてしまいそうだ。

 彼(彼女かもしれない)と目を合わせたことはない。
最初はゴキブリのお出ましかと思い違いをしていた。
たいがい見つけたときは、ぼくから遠ざかろうとしている。
だけど、新しい知りあいができた気がする。

 頼むから、ぼくの体の下へ潜りこまないでほしい。

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