偏見と先入観が味覚を変えていないか
全世界中の飲食店で、思い込みと前情報による【味覚操作】がどれほどなされているんだろうか。
従業員に必ず料理やお酒の説明をするように指示する飲食店は少なくない。では、親切が度を過ぎ情報を与え過ぎた世界において、食する側には何が起こるだろうか。
疑いもせず店員さんから説明された言葉で脳内をペンキ塗りして食べる。それがそうであると思いこんで飲み込む。豚を「コレは牛だ」と言われれば、脳内で豚が牛になる。そんなことを繰り返しているうちに、まっさらの状態から自分で感じる感性は鈍り、気づけば情報無しでは食と対峙できない脳が出来上がっている。人の脳内が前情報で侵されてはないか。
このことを思うたびに90年代のマトリックスという映画が頭をよぎる。
機械が支配する世界の中で、人類はカプセルのようなケースの中でチューブに繋がれ寝ている。ほとんどの人類が脳内に投影された仮想空間の中で何気ない日常を過ごしている。当人たちはそれに気づかず、実際は機械に支配された世界で眠っているだけである。そこへ救世主が現れ、機械の支配と空想の世界から人類を救い出すという映画だ。
それが現実か仮想空間なのか確認することさえ脳を支配された人間には不可能だ。
なんと悲惨な世界だろうか。
(私達の食の世界でそれが起きているよきっと。)
飲食店で料理とお酒の説明することは、恐ろしいことにオペレーション化され従業員へ命じられ、破るものは悪となる。
受け手は前情報や説明がなければ、刀を取り上げられた侍のように太刀打ちできず、不安や不満で力なく箸を進める。
コレを目の当たりにした私の中に「違和感」と呼ぶべきか、「湧いてきた指摘」と呼ぶべきか分からないが、その様な何かを感じる。
前情報が必須で脳内ペンキ塗りのこの世界を作り出している原因は、出す側が受け手に対して考えることを辞めさせていることではないだろうか。
人が食と対峙して自身で感じることができなくなるようなサービス体制が原因ではないかと。
この過剰にも思える料理やお酒の説明という補助輪を付けられた受け手はすくすくと育ち、みるみる無感覚の脳を育む。そんな受け手に対して、自分たちのこだわりや他との繊細な違いを感じてほしいと、日々さらなる前情報と説明を続ける出し手。
(逆行している。)
もちろん出し手だけにこの責任があるわけではない。ある程度そういう脳に塗り替えられてしまってはやりようは無いのだが、受け手も少しは出し手にのまれず自身の感性で感じ取ろうと努めることはできるはずだ。
少しそれて受け手の話をすると、ラーメン屋さん。
入れば写真と券売機の文字で、受け手は何が作られ出て来るのかを想像する。想像というよりも殆ど確定事項であるかのように認識してしまうのではないか。もし自身の想像とは違ったものが出てきた場合、それが美味しかろうがまずかろうが何であれ、受けてのストレスとなる。
そして、説明や写真が無い注文ボタンは怖くて押せなくなる。
(頑張れ。押せ。そんなボタンくらい押せ。
きっとこのご時世酷くまずいものは出されやしないよ。)
想像と一致しているかどうかが焦点ではなく、目の前のものが何者なのかへ着目したらどうだろうか。
自分の食べているものは何か。五感で感じられているだろうか。
説明や情報は本来、親切という名の補助輪だったはずだ。
食をより楽しむ為の補助輪。
補助輪はいつか外すことが前提だから色んな意味で安心安全なのに。
補助輪を外せなくなり、ガッツリ偏見と先入観に埋もれて何を食べているのか分からなくなるくらいなら、最初から補助輪無しでいた方がきっといい。
「五感」をテーマに数々の議論が交わされてきたんだろうし、コレをテーマに食のイベントを開催するなどもはや古典的で使い古されているように思えるけれど、どれほどの人が本当に「五感」で過ごせているのだろう。
食に限ったことではない。
大事な決断は日常に転がっている。偏見と先入観を元に誤った判断がくだされないことを願う。