「冷笑系」と「イキリ男性問題」を考える
今日は、先日の衆院選について考えたことの続き……というか、付随して考えたことだ。僕がずっと考えているのは、いわゆる「ネトウヨ」から「冷笑」への流れ(古谷経衡さんの指摘)の問題だ。
別に僕は左翼ではないし、はっきり言ってしまえば彼らの一部の他人をリンチする快楽を手放せなくなっている傾向は本当に危険だと思う(そのため、発言や著書の「切り抜き」で、殴りやすい相手に対する攻撃材料の捏造が黙認されるケースまで少なくない)。
しかし、それを差し引いても、この「ネトウヨから冷笑へ」の流れがこの国の民主主義を考えるうえでの最大のガンであることは間違いないだろう。これらの言説は、コンプレックス層に対し、自分を「強い側」にいるかのような、「賢い側」に含まれるような「錯覚」を与えることによって集票/課金を促すものだ。
具体的には、第二次安倍政権下で劣勢だったリベラル勢力に対し、後出しジャンケン的に「ほら、また、負けた。だからリベラルはだめなんだよ」とダメ出しすることで、自分を賢く見せるパフォーマンスとして定着した。ほんとうに卑しくて反吐が出る態度だと思うが、これがSNSで自分を強く、賢く見せる(自分に言い聞かせる)ことが気持ちよくなってしまい、手放せなくなってしまった層を生んだことは過小評価してはいけないだろう。
そして厄介なのはこうした「冷笑」仕草が、いわゆる「弱者男性」問題と複雑に結びついてしまっているということだ。経済的、社会的、人間関係的ーーどこに不満があるかは人それぞれだろうけど、彼らの共通点は何らかの「被害者意識」に強く駆動されていることだ。自分たちは何者かによって「損なわれて」しまった。だからその「何者か」を攻撃することで、それを回復しなければいけないというオブセッションを彼らの言動に感じる(ために不気味さを覚える)人は少なくないだろう。
いわゆる「ネトウヨから冷笑へ」の流れもこの視点からきれいに説明できる。90年代の、つまり冷戦終結直後の「新保守」というのは、小沢一郎(当時)の国連主義などに代表されるように、冷戦後のパワーポリティクスとグローバル経済への「適応」を訴えるリアリズムがその前提にあり、その上で、「一周回って、安全保障は(いずれはアメリカだけに好きにさせない)国連主義で行こう」といった「理想」が加えられる、というものだった。
しかし90年代後半に登場した「新しい歴史教科書をつくる会」など、「草の根の保守運動」は違う。ここでは圧倒的に「被害者意識」が幅を利かせていた。いや、今思えば(僕は当時中高生だったので、本などで後追いで想像しているところも大きいが)バブル期の「新保守」にもじゅうぶん「戦後民主主義的な建前主義によって自分たちの本来の人生は損なわれてしまった」という「被害者意識」はあったように思う。僕も漠然とだけど、学校的な建前社会は行きづらいな、と思っていたしそういった感情が批評ジャーナリズムに興味をいだいたきっかけのひとつだったように思う。
しかし『新しい歴史教科書をつくる会』はいくらなんでもさすがについていけない……と僕は思ったのだけど思わなかった同世代の男性は多かったのだ。普通に歴史修正主義だし、自分探し的なメンバーが内ゲバばっかりやって左翼みたいだし……これはアウトだろ、と僕は感じていたし、宮崎哲弥的な「教科書を変える(新しい主体を立ち上げる)って発想がそもそも問題を理解していない」という指摘に、一番共感していた。まあ、僕の話はおいておいて、ここでのポイントはネトウヨのルーツとなったこれらの運動が「損なわれた男性性の回復」的な被害者意識を中核にしていたことだ。これは、同じ保守でも西部邁ー佐伯啓思ラインのアンチ・グローバリズムとしての「保守パトリオティズム」という流れとは、仮想敵からして違う(国内戦後民主主義ビジネス左翼か、グローバリゼーションそのものか)し、当然、「思想」のていをなしているのは後者なのだけど、社会問題として重要なのは前者だ。そして前者の西尾幹二(「つくる会」)的なものが、今日の「ネトウヨ」文化の遺伝子提供者になっていく。
このように今日のX論壇を支えるコンプレックス層のトレンドが、ネトウヨから冷笑主義に移行している流れは、この「被害者意識」をポイントに考えるとよく分かるはずだ。この2024年、ネトウヨ(岩盤保守)は半ば弱者ターゲットのビジネスと化し、その商法の確率によって「自分は頭が良いと思われたい(自分に言い聞かせたい)」人たちはその高いプライドからアクセスしづらくなってる。この層の「賢く見られたい」という欲望をより直接的にマーケティングしているのが「冷笑」言論だと考えればいい。
要するに、後出しジャンケン的に負けた方を攻撃する態度を中心に据えることによって防御コストを低く抑え、攻撃(叩きやすい人間を攻撃して、自分を賢く見せる)に特化できるポジションを提供するのが「冷笑」なのだ。
こうして考えたとき、やっぱり考えてしまうのはある種の男性の歳のとりかた……みたいな問題だ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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