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『機動戦士Gundam GQuuuuuuX Beginning』と「歴史」の問題

前々回に引き続いて『機動戦士Gundam GQuuuuuuX Beginning』について考えてみたいと思う。

せっかくなので、鶴巻和哉と榎戸洋司のコンビの作品を復習しようと思って 改めてフリクリを 25年ぶりに見返したのだが 第1話が僕が思っていたものよりもびっくりするぐらいサムくて、正直見続けるのが辛いのではないかと思った。


だが2話以降そのサムさには慣れていって、だんだんと「あの頃」を懐かしむ気持ちのほうが勝っていった。そして90年代後半の「あの頃」とはなんだったのかと考えながら観ていると面白くてたまらなくなり、最終的には6話までイッキに観てしまった。そしてこの「サムさ」と「懐かしさ」から今回は議論を始めたい。

まずこれは仕方のないことなのだが、今『フリクリ』を見返すと、あの時代特有の「終わりなき日常」というモチーフが、今日ではまったく機能しなくなっていることを痛感させられる。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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